2005年 元旦特集・【水】

【 50周年特別企画 「水」 】 

  生き続ける生命の井(カー)

住民生活支えた大川(ウプカー) 50年ぶりに現る

 平良市教育委員会の発掘作業により、広く庶民に利用された「大川(ウプカー)」がおよそ40−50年に及ぶ眠りから目を覚ました。
 大川の石積みは楕円形で最大の直径は20メートルにも及ぶ。深さは2・5−3メートルある。建造当時、牛馬の用水所として活用されてきた。過去に県内で発掘されている用水所としては最大規模の大きさである。
 内部には牛馬が下りやすいようにスロープがある。また、人が同時に使用できるように石の仕切りも設けられている。
 石積みは大和井と同じような構造をしているため同年代に建築されたのではないかとみられ、下方に大きな石が積まれ、上方になるにつれて小さな石が積まれる安定した造りで、当時の建造技術の高さをうかがわせる。
 平良市文化財審議会のメンバーらも「一級品の史跡。当時の建造技術の高さに驚くばかり」と舌を巻く。同審議会と平良市教育委員会では国指定文化財も視野に入れて保護活動を行う予定。
 大川に関する文献はほとんどない。唯一記されているのが1727年に宮古から琉球王府に報告された「雍正旧記」で、「大川、掘った年代は分からない。長年の間に大破したので、康煕56年(1717年)に補修した。牛馬の用水所である」とだけある。
 発掘された大川は1950年代の半ばには同審議会の友利恵勇会長らが幼いころに確認しており、同年代以降に水道の普及と土砂の流入により地中に埋もれたものとみられる。
 昨年、市の事業で大川の掘り起こしを計画、10月中旬から発掘を始めた。重機を使用して土砂を掘り起こした結果、巨大な大川が姿を現した。












 写真説明(上)・およそ50年ぶりに姿を現した大川。県内で発掘された用水所としては最大規模の大きさ
 写真説明(下左)・湧水口の水は洗濯、水浴びなどに利用された
 写真説明(下右)・丸くくりぬかれた石積み。建造当時に手を洗うために使われたと見られる

宮古の井(カー)を紹介

 宮古地区が全島送水されたのは1980年。飲料水、生活用水に井(カー)の存在はなくてはならないものだった。昔の人たちは井の周りに集落をつくり、生活してきた。以後、数百年もの間、飲料水や生活用水として広く利用され、上水道が普及するまで各地の井では水をくむ人々の姿が絶えることがなかった。井は今でも水をたたえ、当時の生活や苦労をしのばせる。宮古各地に点在する井を紹介する。

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@ 山川ウプカー
 所々石段の残る古い道を40メートルほど下りると、岩の間からこんこんと水が湧き出ている。
 簡易水道が整う前は、山川、下原地区の人々が生活用水、洗濯、水遊び、馬を洗ったりとにぎわいを見せたという。
 ウプカーの水は下の海浜に流れ肥沃な土地を形成してきた。通称、長間田(ナガマダー)と呼ばれる水田は米の生産地として知られ、仲宗根豊見親の末裔が管理してきたが、キビ栽培の発達に伴い、水田への利用は役目を終えた。
 また、水量が豊かなことから1970年ごろにはウナギの養殖に利用されたこともあった。
 2002年5月、城辺町指定有形民俗文化財。

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A 大和井(ヤマトガー)
 築造年代は不明だが、宮古島旧記の記述から1720年ごろと推定されている。近くにはプトゥルガー、ウプカーなども存在し、当時の生活様式を知る上で貴重な遺跡群である。
 首里王府派遣の在所役人など、ごく一部の役人が使用し、庶民には開放されなかった。入り口部には門扉を用いたとみられるかんぬきの跡があり、水守りがいたことを裏付けている。
 湧泉口の基底部は平らで、円形状の内璧は周囲約20メートル、石積みの璧は高いところで約4メートル。全体に丁寧な石工技術が施され、積まれた切石は下部から上部に積まれるにつれて次第に小さくなり、安定感のある積み方になっている。
 1902年に国指定重要文化財。

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B 盛加がー(ムイカがー)
 平良の各所に散在するウリガー(洞井)の代表的な存在である。
 直経約23メートルの地表の開口部から湧水口まで約18メートル、103段の石段を降りた洞穴の奥深いところに湧泉口がある。
 盛加がーがいつごろから人々の暮らしにかかわってきたかは定かでない。洞内には小規模ではあるが貝塚層もあり、人々が数百年も素足で踏みしめたとみられる摩滅した石段からは、水にかかわる人々の苦労がうかがえる。
 盛加がーの上方には盛加御嶽(ウタキ)があり、島内守護神としてあがめられている。
 1975年12月、平良市指定史跡。

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C 鯖沖井(サバウツガー)

 鯖沖井は佐良浜地区の断崖下にあり、井へは120段の石段を下る。「サバウツ」とは近海を回遊している鯖魚を捕る(ウツ)ということを表しているのではないかといわれている。
 井を発見したのは、ミャーギ立の金大主とオソゾーの松大主という2人の若者。2人は崖から流れ落ちるかすかな水音に耳を傾け、雑木林をかき分け、井を探し当てたという。
 佐良浜地区唯一の生活用水の水源として240年もの間、生活に欠くことのできないものだった。
 1975年8月、伊良部町指定史跡。

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D 来間川(クリマガー)
 来間井は来間島北海岸の崖下32メートルのところにあり、来間島唯一の飲料水源であった。
 昔の女性たちは来間川で水をくんだ後、頭に水瓶を乗せた状態で約150段の石段を上り、家族のために1日に何度も往復していたという。
 言い伝えでは、羽をぬらして飛び立つ鳥を見て、来間川が発見されたとされている。
 1975年に宮古本島から海底送水されるまで、島の暮らしに欠かすことのできないものだった。
 1976年11月、下地町指定史跡。

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E アナ井(アナガー)

 アナ井は自然に落ちこんだ堅穴状の洞穴泉に手を加えたもので、入り口から湧水口までの高低差は約12メートルある。洞穴の底部には、コンクリート製の湧水を貯める池が造られている。
 宮国村の番所跡の東に位置しているため、当時は役人たちによって「東井」と呼ばれていた。
 水道が普及するまで、宮国住民の生活を支える貴重な水源で、朝から晩まで、ひっきりなしに人が集まり、水くみ、洗濯、水浴などでにぎわった。
 1979年3月、上野村指定文化財。

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F あま井(あまガー)

 城辺町砂川と同町友利の境界にあり、友利元島遺跡に隣接する自然洞くつの湧水。2回の地殻変動で形成されたとされており、降り口から湧水口までの深さは20メートルほどあり、自然洞くつとしては規模が大きく、水量も豊かである。
 水を運ぶのは婦女子の日課で、あま井に降りる石段の側壁には、手で支え登ったために摩滅したところが数カ所あり、当時の苦労がしのばれる。
 1955年にあま井を水源とする友利、砂川簡易水道が開設され、人々は石段を往復する仕事から解放された。
 1981年3月、県指定有形民俗文化財。

 

 

 

 
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