イカ爺とは

週末になると孫達が遊びに来 るのに、私はイ カ釣りに行っていて不在。
爺々は何処行ったの?の質問に家内曰く「イカ釣り行った よ!」。
孫曰く「じゃ−イカ爺だね」と私の呼び方が決まってしまった。オソマツ。
孫達の相手もしないイカ釣り馬鹿です。

イカ釣りと言うと家内は余りいい顔をしてくれない、
魚を釣って来て・・・と若かり頃、沖釣りで大漁していた頃の事がまだ脳裏にあるみたい。
家庭内の遣るべき事を全て片づけてないと禁足令が出るから大変だ。(笑)
それでも苦菜(ニガナ・わが家はイカ墨汁に入れる)を準備し包丁を研いで待っている。
量が多い時は子供達や親戚に配っているのを見ると満更悪い気はしない ようだ。

大晦日から元旦の朝にかけての釣り納め・釣り始めが恒例だったが(家内だけ家で一人ポッチ、正に家庭破壊型釣師)子供達二人が結婚、孫も出来ると家族全員 で 元旦を迎える事になり、禁足令が中々解けず10年ほど行っていない。誰か確信犯になってくれないかな・・(笑)


プロフィ−ル
HNネ−ム:イカ爺
生年月日:昭和17年3月生(魚座)
出生地:男だけ8名の5男として沖縄県八重山郡与那国町久部良で出生
3才までは戦争中で避難壕暮らしをする。家の庭の簡易な壕では危ないからと大きな湖の横穴の壕(床は竹イカダ)から2転3転して食糧が入手為やすいように と山裾にある我家所有の畑の中に小さな森になった壕に移転した。ヤンチャな子供で壕からよく這い出て兄達を随分と困らせたそうだ。そうゆう兄達も空中戦を 木の上から見ていて、大人に怒られていた。3才で終戦、戦争は終わったと言って祖父に近くの海岸に連れて行かれて海水で身体を洗って貰った。
途切れ途切れ だが3才時でその頃の記憶が有るという事は幼児の頃の体験は強ち馬鹿にならないなと思う。
戦争中の最中、良くも生き延びられたと・・・田舎で同年生は一番少ないです。
    
パソコンを覚えたのは今は定年で会社を去ったが、入社当時はスタッフ(現在もそうだが)は全員本土の方。
沖縄の人を差別する発言を繰返していて、私にも差 別的発言を再々してい た。
見返してやろうとパソコン教室にも行かず、マニュアルだけで自己流だがある程度のことは出来るようになったという非常に不順な動機である。
イカ釣り もそれまでは会社に秘密にしていたがその人を見返してやろうと新聞に載せるようになった。
当人も釣り(魚)をしていて潮が良いと週中に年休を取って釣りに 行き、翌日は盛んに自慢ばかり(沖縄の人は自分程釣れない)と。
その人が沖縄が好きだと言ってマンション買って永住している。それも沖縄人に対する一種の 優越感からかな〜と私は理解してる。
そうゆう人は沖縄から去って 欲しいものだ。
現在は職場環境もよく大変居心地も良いし、定年を機に転職も決まっていたが慰留されたのでそのまま残ってる。
そまま65才ギリギリまで残されそう。
リストラ流行り のご時世に有難い事です(笑)





久部良集落の全景写真 








釣りとの接近
子供の頃、父は突棒船(三本モリで突く漁)のカジキ漁を営んでいた。
祖父は大身のカジキより磯の小魚を好んで食べた。釣りに行くと言うと祖父は木綿針で釣針を喜んで作ってくれた。
リ−ルなんて無い時代、竿はチンブク(釣用の竹)ナイロン糸が効果な時代でしたのでラインは木綿糸、ハリスは30センチ程度、竿先に縛ったシンプルな物。 勿論ウキは手製の物でした。
それでも磯の小魚や湖の小魚をよく釣っていた。子供の頃の釣りはその程度。

高校に進学する為に那覇市の上之山中に三年の二学期に転校、社会人になるまで釣りはお預け。
社会人になってからは、チョコチョコ磯釣りはやっていたが24 才の時、取引先の社長から沖釣りの誘いがあった。
あの頃はどこ行っても面白いほどよく釣れ た。二人して各地の釣船を貸切したものだ。

旧暦二月になると台湾坊主(春一番とかニンガチカジマイと言う)が発生する。
天気図を見て予報を聞いてから釣行を決めている程慎重だった。
友人二人は私の 反対を押切って沖釣りに出かけたのはよいが途中から海は大荒れ、死ぬ思いをしたと後で漏らしていた。
子供の頃、漁船が遭難して命を落したり、助かっても大 けがをして片足を切断した人を見ている。
自然を侮ってはならない。特に荒磯や沖釣りには気を付けた方がよいでしょう。
その点、白イカ釣りは海が穏やかな所 でしか出来ないので安全な釣りかも。





(子供の頃の突船の模型) 
 







白イカとの遭遇
28才の時自社ビル建設現場(倒産で今は人手に渡ったが)を見た帰りに安謝の埋立地の護岸に寄ったら、
不思議な光景に遭遇す る。
それが白イカ(シルイチャ −)釣りだった。
そこは冬場のトバシナ−の釣場だったのが、埋立てによってイカ釣り場所になっていた。
面白そうなので近くの釣具店で竿とリ−ル・餌木を購 入、竿を振込むと続々と釣れた
。その時からイカ釣りにハマッテしまった。
  
沖釣りは体力が衰えた56才で止めた。
仕事の都合で度々中断もあったがイカ釣は未だに続いている。
白イカ釣りは体力の限界まで続けたい。
又、初心者で希望 者があればアドバイス等出来たらと思っている。








初めてイカを釣った場所、伊奈武瀬入口交差点、
今は信号機が 建っている。





ギノワン・クイ一番との接近
平成3年7月浦添市港川の銘苅商店(店主は高校の同級生)でお喋りして居たら、そこに上原幸太郎氏夫妻がカ−ミジで釣ったば かりの白イカを持って入って きた。
5年振りにイカ釣りを再開したばかりで、中々調子が出ずにいたので喰い済餌木を一本購入したらおまけを1本くれた。
途中友人の家へ立ち寄り其処で餌 木を忘 れてしまった。
後日、取りに行くと室内を改装中で餌木は紛失していた。
   
平成4年10月にクイ一番を訪ねイカ釣りの指導を請う。
しかし、イカ釣りに関する取組・考え・技術的な事はほとんど一緒。
唯、自分がスランプ状態だっただ けと判った。

これまで本土産(大分型)の布張りの餌木を使用していた。
クイ一番の木目模様の餌木にショックを受けた。
地元産と言えば塗装無しで、線香で模様を焼き入れた物 (所有はしていたが)しか見てないので使う気にもなれなかったし一度も使用してない。
制作コストを下げる為に桧材で制作を始めた時から、私は自分流の餌木 をシ−ダ−(米杉)・パイン(米松)を使って作り始めた。
木目模様の餌木を欲しがるお客さんに、自作の餌木(木目模様)を売上げに協力する意味でクイ一番 ブランドで販売させたので、ロスさえしてなければまだ使用 している方もいると思う。

私なりに物心両面で協力した積りだが、諸般の事情で廃業したのは非常に残念。沖縄のイカ釣り底辺を広げた彼の貢献度は多大。
彼を慕う熱狂的なフアンは多 い。何時の日か再度復活・再登場してもらいイカ釣りを一緒にしたいと願っている。
良きライバル(イカ釣りで)失って非常に残念。

汚すな! 壊すな! 散らかすな!
昔は近くの海岸で釣れたのに、港湾・護岸・漁港・海岸等々、埋立て等の乱開発で年々釣り場が失われる一方。
釣りポイントが遠くなるばかり。そのポイントす らビギナ−の釣人達がゴミをまき散らかして帰る。

釣り場はピクニックや宴会場ではありません。
本物のツリサ−(釣人)は海を汚さないよう気をつけています。
ス−パ−の買物袋のビニ−ルが餌木に掛かって来たり、海底に空き缶が散乱して居るのを見ると、無性に腹が立つ。
   
これ以上自然を破壊為ないで下さい。自然を大切にしましょう。
           






(伊計島の看板)










忘れられない場所
37〜40才の三年間は宮古島で勤務していた。
仕事を引けてからよく釣りに行ったものだ。
夕方、前浜の岸壁(トライアスロンで有名)で打込み釣りをしていて、次の竿の準備をしている最中に竿を海に持って行かれた。
慌てて竿を追っかけて海に飛 込んだのはいいが、当日は台風が接近していて、おまけに大潮で潮の流れが速く沖に流される一方。
やっとの思いで岸壁に泳ぎ着いた時はヒヤットした。たかが 竿一本、以後無茶な事をしない事にした。
後日談だが竿は翌日100メ−トル右側の浜に打上げられて居るのを地元の方が拾ったとの話を聞いた。
  
魚を寄せている最中によくイカが抱き付くので、久々にイカ釣りでもしようかと釣具店に行った。
餌木は置いてなく急きょ那覇より取寄せて貰った。
私が居た 三年間で地元の方達が餌木をキャスティングしているのを一度も見ていない。

12月に西平安名崎で1、5キロ程度の三杯釣り揚げたところで、近くでクブシミ狙い(餌はサンマの切身で浮きは発泡スチロ−ルの半片)の熟年の夫婦が近 寄って来て、何で釣ったのと聞くので餌木を見せたら不思議そうな顔をしていた。

釣り三昧をした宮古島、西平安名崎のイカ釣り・七又海岸でフィ−バ−した大物釣り、会社の同僚と城辺の海岸で腰まで浸かって立ち込み釣りをして釣った小魚 を海岸で焼いて食べた事等々、未だに忘れられない思い出として脳裏に残っている。
機会があればもう一度対岸の大神島(残念ながら一度も行って無い)へかけ てのイカ釣りをして見たいものだ。



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