1908年 4月〓日 来間、与那覇、上地、洲鎌、嘉手苅、川満、            野原、新里、宮国の9カ字を以て下地村誕           生       4月   垣花武福氏下地村長に任ぜられる(知事任命)      6月〓日 第1回村会議員を選出(〓人) 1909年 5月〓日 下地小学校校舎(瓦葺)を字洲鎌305番            地に落成 1911年 4月〓日 下地小学校を下地尋常高等小学校と改称する 1912年 7月〓日 明治天皇崩御 1913年 3月〓日 宮古に海底電信開通する。下地村嘉手苅の            下原海岸に海底電信陸揚場の建物が設置さ            れる            嘉手苅に病院を開設する。川上繁造医師を            月〓円にて採用 1917年 2月〓日 奥平恵勝氏下地村長に任ぜられる(知事任           命)与那覇恵氏 収入役に就任 1918年 2月〓日 下地郵便局設立       〓月〓日 下地村西部(下地学区)青年団設立 1920年 7月〓日 一般町村制の施行により、初代助役に与那            覇恵氏が選任される 1921年 1月   沖縄製糖株式会社宮古工場設立 1926年 7月1日 宮古島庁は廃止され宮古支庁となる       〓月〓日 大正天皇崩御。元号を昭和と改める 1943年 4月   下地村立青年学校設立。初代校長下地武氏 1944年 5月8日 下地村農会と産業組合を合併して下地村農            協共同組合となる       8月〓日 下地校の集団疎開児童〓人川満一訓導引率           の下に宮崎県へ出発する 1948年 4月1日 下地中学校開校する       8月1日 下地村より東部の野原、新里、宮国、名嘉            山、高田、豊原、嘉手苅部落の一部(ガア            ラバル、ヤアバル、ソバンメ)は分村して            上野村となる       〓月〓日 慈善病院下地分院開院。初代院長に下地恵            俊氏任命される 1949年 1月1日 下地村、町に昇格する 1950年 6月〓日 豆台風襲来(最大風速〓b) 1952年 4月1日 琉球政府創立       4月〓日 収入役に上地武茂氏が選任される       8月6日 下地郵便局、役所外町内〓カ所に初めて電           話設置       9月〓日 沖縄製糖株式会社創立(操業翌年3月〓日)1954年 5月3日 町長選挙が施行され、盛島明得氏が第2代           町長に当選       〓月6日 与那覇芳蔵氏の助役辞任に伴い、後任とし           て松川浩氏を選任 1956年 4月〓日 上地武茂収入役の任期満了に伴い、字上地           の下地源雄氏を収入役に選任 1958年 5月4日 町長選挙施行、盛島明得氏当選       8月〓日 役所庁舎新築落成式挙行。 1959年 9月〓日 台風〓号(サラ)襲来。最大風速〓b、瞬            間最大風速〓・8b(第一宮古島台風)       〓月4日 宮古製糖株式会社創立(操業翌年〓月4日) 1961年 9月9日 市町村合併に伴う町長解職、議会解散請求            に基づき臨時議会招集。町長の退職につい            て同意し、議員の総辞職を決定       〓月〓日 町長に下里芳蔵氏が無投票で当選。議員の           総辞職に伴い、新議員〓人無投票当選       〓月〓日 下里芳蔵氏町長を辞任       〓月〓日 松川浩氏の助役退職に伴い、字上地の砂川           明正氏を助役に選任 1966年 9月4日 台風〓号(コラ)襲来。最大風速〓・3b       ―6日 の猛威をふるい住家畜舎農作物家畜などに            甚大なる被害(第2宮古島台風) 1968年 9月〓日 台風〓号(デラ)襲来。最大風速〓・3b、        ―〓日 瞬間最大風速〓・8bの猛威をふるい甚大            なる被害(第3宮古島台風)       〓月8日 下地小学校完全給食スタート       〓月〓日 来間島に電話開通する 1969年 3月〓日 下地町議会議員定数を〓人から〓人に削減            する条例を制定       6月1日 町制施行〓周年記念式典と祝賀会、関連行            事を実施       〓月8日 来間島に電気が送電される 1970年 4月1日 下地教育区立下地幼稚園開園(下地小3教            室借用) 1972年 5月〓日 沖縄本土復帰 1973年 5月3日―6日 復帰記念沖縄特別国体(若夏国体)開催       6月〓日 下地町庁舎建設工事(増築、改造)竣工 1974年 〓月   宮古島より来間島へ水道送水する 1976年 2月   来間製糖工場閉鎖       4月〓日 来間小中学校完全給食(海上輸送)スタート 1977年 4月1日 下地保育所開所 1978年 1月   来間港、与那覇前浜港間にフェリー就航       6月1日 下地町立中央公民館開館 1979年 1月〓日 初の町営住宅となる上地団地6戸が完成 1980年 〓月〓日 下地町歌選定委員会、町歌を選定 1982年 4月7日 下地町老人福祉センター完成       6月3日 下地町子ども会および子ども育成会を結成 1983年 2月〓日 下地小学校にプール完成       9月〓―〓日 第1回下地町民まつりを開催 1984年 4月1日 宮古広域消防組合創立。(平良市、城辺町、            下地町、上野村)       4月〓日 宮古島東急リゾートオープン 1985年 4月〓日 第1回全日本トライアスロン宮古島大会開           催。前浜が水泳会場となる 1986年 4月4日 来間地区県営一般農道整備事業採択決まる       〓月〓日 下地小学校創立100周年記念式典挙行 1987年 7月4―5日 第2回町民まつり       〓月〓日 入江部落が「むらづくり」で農林水産大臣            表彰される       〓月〓日 宮古群島のウリミバエ根絶宣言 1988年 4月8日 エメラルドコースト・ゴルフリンクスオー            プン       8月6日 来間地区県営一般農道整備事業(来間大            橋)起工式ならび祝賀会       9月9日 来間島離島振興総合センター落成祝賀会 1989年 1月7日 昭和天皇崩御       1月8日 元号「平成」となる       3月〓日 町制施行〓周年記念式典ならびに祝賀会開催 1991年 3月〓日 棚根漁港完成       5月〓日 下地町農村環境改善センター落成式       8月〓日 第1回サニツ浜カーニバル開催。以後毎年            開催       〓月〓―〓日 第3回町民まつり開催 1992年 5月〓日 下地町児童館落成式 1993年 3月〓日 ふれあいの前浜海浜広場完成 1994年 4月7日 下地町字嘉手苅に特別養護老人ホーム「し            もじ長生園」開所       7月1日 下地町非核平和のまち宣言       8月〓日 町長に上地武則氏が無投票で再選する 1995年 3月〓日 来間地区県営一般農道整備事業「来間大            橋」開通式行われる       7月1日 来間小中学校創立100周年記念式典挙行 1997年 2月5日 元横綱旭富士率いる大相撲安治川部屋力士        ―〓日 〓人他、町老人福祉センターに宿泊招聘       4月〓日 ダイビング研修センターマリンロッジ・マ            レア宮古島研修センター完成       5月1日 宮古清掃施設組合の一般廃棄物最終処分            場、川満に完成       7月〓日 下地町緑の少年団結団式(小学生〓人) 1999年 3月〓日 農村総合整備で下地町が農林水産大臣賞受賞       6月〓日 下地町役場新庁舎の建設工事地鎮祭、池原            干拓地の建設予定地で行われる       〓月〓日 町制施行〓周年記念式典挙行       〓月〓日 第5回町民まつり 2000年 5月〓日 第1回ビーチバレー宮古島大会、与那覇前            浜ビーチで開催。以後毎年開催       〓月2日 新役場庁舎池原干拓地に完成。落成式典と            祝賀会開催 2001年 2月1日 プロ野球阪神タイガース投手陣が下地町で        ―〓日 1次キャンプを行う       2月9日 台湾漢口国民中学校の生徒が来島。下地中       ―〓日 学校の生徒と交流 2002年 4月〓日 第1回宮古地区市町村合併協議会開催。以           後定期的に開催       9月〓日 台風第〓号襲来。最低気圧910ヘクトパ            スカル、最大風速〓・1bの猛威で大きな            被害与える       〓月5日 「第〓回全宮古小学校オリンピック大会男            女優勝祝賀会」開催 2004年 1月〓日 天皇皇后両陛下が宮古島へ御来島。下地町            役場で「両陛下とのご昼食会」が行われる       9月4日 「第6回下地町民まつり」池原公園を主会       ―5日 場に盛大に開催 2005年 3月〓日 「宮古5市町村合併協定調印式」がマティ            ダ市民劇場で行われる       3月〓日 宮古5市町村の合併関連議案を下地町議会            で可決       3月〓日 「来間大橋開通〓周年記念祝賀会」が来間           小中体育館で開催される       3月〓日 宮古5市町村合併推進協議会を開催。県へ            の合併申請手続き等を確認       3月〓日 県知事へ合併申請書を提出       9月〓日 下地町閉町式典  市町村合併直前インタビュー  農業と観光のリンクで発展願う 下地町長  川満 省三  ―下地町制五十六年と町長としての二期七年間を振り返っての感想  五十六年という長い年月の中で、歴代の町長が取り組んできた農業政策を引き継いで頑張ってきた。下地町は農業を中心とした産業形態の町でもあり、最近では野菜の生産も活発になってきているので、農業の各種補助などには特に力を入れてきた。教育面では、児童生徒の国際交流事業にも取り組むことができた。今後も継続して子供たちに夢を与えていってほしいと願っている。ビーチバレー大会の誘致などで観光振興という大きな目標も達成できたという自信がある。  ―下地町の地域性と今後残していきたいものは  自然が多く残っているのが下地町の自慢。観光と農業をリンクさせた取り組みが今後の地域振興にもつながってくると思う。特に下地町は農業を中心としており、各種補助も他の地域より多かったと自負している。合併後もしっかり引き継ぎ、農業振興という大きな目標を持って取り組んでいかなければならない。また、畜産でも自家保留牛の制度で系統の良い母牛を残し、良い子牛を生産していきたい。この制度を導入したことで、下地町の子牛販売額は他の地域よりも高くなった。新市でもこの制度をしっかり取り組んでいってもらいたい。  ―十月一日の市町村合併を控えた今の心境は  紆余曲折あり一時は合併しないことが議会で議決され、国の三位一体改革や国庫補助削減で自主財源が乏しい下地町としては焦りがあったが、議員一人ひとりに合併の必要性を話し何とか合併にこぎつけた。「下地町」という名がなくなることに寂しさはあるが、寂しさ半分、期待半分といったところ。閉町式で児童たちから町旗を手渡された時は、こみ上げてくるものがあった。合併後は「宮古は一つ」という気持ちで住民も努力することで、合併の良さが出てくると思う。  ―最後に町民へ一言  五十六年という町制にピリオドを打つが、これまで協力していただいた町民に感謝したい。合併しても地域がなくなることはない。合併後もこれまで培ってきた協力の気持ちを持ち続けてほしい。  十月一日の市町村合併により、下地町は平良市、城辺町、伊良部町、上野村とともに「宮古島市」として新たな歴史をスタートさせる。農業・畜産業の町として第一次産業を中心に、前浜ビーチや来間大橋など観光地に恵まれた地域性も生かし今日の発展を遂げてきた下地町は、九月三十日をもって五十六年間の歴史に幕を閉じる。新市でのさらなる発展やこれまでと変わらないサービス、「下地らしさ」を守り残していくことは今後の大きな課題。下地町がこれまで刻んできた足跡やこれからも残していきたい「下地町」を紹介する。 豊かな自然を継承へ 発展のカギは「農業」と「観光」    新城盛雄 作詞    長浜 隆 作曲 一、朝日輝く みどり野に   五こくの幸を もとめつつ   互いに心 結びあい   ふるさとのばす 時は今   ああ下地町 みのりあれ 二、伝えゆかしき ツノジ原   あやなす雲に 照り映えて   前浜入江 与那覇湾   ふるさといかす 時は今   ああ下地町 めぐみあれ 三、歴史をかたる我親の   足跡しのびゆるぎない   産業文化 人づくり   新たにおこす 時は今   ああ下地町 栄えあれ 町 花 下地町歌 沿革年表(1908―1969) 沿革年表(1970―2005) 〓年の歴史を刻んできた下地町の銘板。合併後は「下地支所」の新しい銘板が設置されるが、「下地町」の銘板は敷地内に移転し残していく 合併を控えこれまでを振り返るとともに今後の発展に期待を寄せる川満省三町長 町制56年の歴史に幕 町木 ハイビスカス イヌマキ 歴代町長 第5・6代 上地真幸 初代 与那覇金一郎 第4代 下里芳蔵 第2・3代 盛島明得 第7〜9代 川満正公 第〓・〓代 下里功 第〓・〓代 上地武則 下地町歌 永遠に… 町民に歌い継がれ約25年  下地町で約二十五年にわたり歌い継がれてきた「下地町々歌」。緑豊かな農業の町を表現し、将来への希望が歌詞に込められている。下地町が手掛けるほとんどの催しで合唱され、小学校では音楽の授業でも歌われるなど下地町民にとってはなじみ深い歌だ。  下地町々歌は、町制施行三十一周年を記念し誕生した。学識経験者などで「町歌審議委員会」を発足させ、一九八〇年十二月に歌詞が選定された。二十六点の応募の中から「下地町の伝統、名所、将来の展望などが盛り込まれ、言葉遣いも親しみがある」として、那覇市在住(当時)の新城盛雄さんの歌詞が選ばれた。  曲は、当時学校教諭を務める傍ら作曲も手掛けていた現宮古高校吹奏楽部顧問の長浜隆さんが担当。長浜さんは「ずっと残っていく歌なので、誰にでも歌いやすく元気が出る曲になるよう心掛けた」と話し当時を振り返った。昨年開催された下地町民まつりでは同吹奏楽部の演奏で曲を披露し、下地町の空に町歌を響き渡らせた。  市町村合併により公の場で歌われる機会はなくなってしまうが、下地町を象徴した「下地町々歌」は合併後も町民の心に残り、受け継がれていく。  自然のわき水によって出来た崎田川は、全長900bで与那覇湾へと流れ出ている。昔は生活用水として住民たちの生活に潤いを与えていた。  崎田川には「咲田川」「酒田川」の数種類の表記があり、いろいろな言われが伝えられている。「崎田」は周辺の地名からきたもので、「咲田」は花が咲くといった美しいイメージによるものだという。「酒田」は、親孝行の息子が崎田川の水をくんで酒飲みの父親へ持ち帰ったところ、おいしい酒に変わっていたという民話にちなんだものだという。  この崎田川では体長が二bや一・五bの巨大ウナギが採れたこともあった。今でもテラピアやグッピー、エビなどが生息しており、夏場には釣りを楽しむ子供たちの姿も見られる。  水量は減ったものの崎田川の水は今でも湧いており、新たな取り組みと住民たちの関心を高めることが今後の保全につながっていく。 崎田川。水量は減ったが今でもわき水がわいている 1・5bの巨大ウナギが発見された1974年6月の新聞記事  「東洋一の白い砂浜」をキャッチフレーズに、島内の観光地の中でも特に人気と知名度の高い与那覇前浜ビーチ。日中は観光客らでにぎわい、夕暮れ時には地元住民たちが散歩に訪れるなど憩いの場としても多くの人が足を運ぶ。トライアスロン宮古島大会のスタートとなる水泳競技やビーチバレー大会、ジェットスキーレース、ミュージシャンによるライブの会場となるなど、年間を通して観光振興に大きな役割を果たしている。  特に公式大会としてプロの選手たちからも一目置かれているビーチバレー大会は、島外から毎年大勢の選手たちが来島するほか、男女混成四人制には地元の高校生や住民もこぞって参加。島外からの選手だけに偏らず、地元住民たちにも親しまれている大会だ。  今後も下地の顔、宮古島の顔として自然の美しさを保つことがさらなる可能性を伸ばしていくカギとなる。  大潮の日に干潮時になると約700fにわたる広大な干潟が出現するサニツ浜。毎年干潟を利用したサニツ浜カーニバルが開催され、宮古の夏を彩る一大イベントとしても定着してきた。以前は競馬や宮古角力などで長寿や豊年を祝う「ゆなぱぬ(与那覇の)サニツ」や与那覇の敬老会など地域の行事が盛んに行われていた。時代の移り変わりとともに一時は中断したが、伝統行事をよみがえらせ地域活性化につなげたいとの思いから、サニツ浜カーニバルとして現在に引き継がれている。  サニツ浜は与那覇湾と同様に野鳥の休憩地や越冬の場となっているほか、砂地にはミナミコメツキガニなどが生息している。ミナミコメツキガニは体長約1aから2aほどの小さなカニで、砂中の有機物をこして食べるため、干潟のあちこちで「食事のあと」の砂の塊が見られる。  人々が集う場所としてだけでなく、野鳥やカニなどの生物たちにとっては命を守る大事な資源となっている。  サニツ浜    崎田川    前浜ビーチ  「東洋一の白い砂浜」の前浜ビーチ。下地の顔でもあり、宮古島の顔でもある 今回で第6回を重ねたビーチバレー大会。年々人気とともに参加人数が増加 大潮の干潮時には約700fにわたる広大な干潟が出現するサニツ浜 毎年、干潟を利用して行われるサニツ浜カーニバル  平良市街地から国道390号線沿いに見える与那覇湾。リュウキュウスガモやリュウキュウアマモなどの海草類が混生しているほか、春や秋には渡り鳥が、冬には越冬のためやってくる野鳥でにぎわう。日本の重要湿地500にも選ばれ島内の貴重な干潟として野鳥愛好家などに親しまれている。  そんな与那覇湾で、1972年ごろ国による淡水化計画が持ち上がった。川がない宮古島では、干ばつ時に農業用水がなくサトウキビなどに多大な被害が出た。そのため国では農業用水源として、地下水開発とともに与那覇湾の淡水化のため調査を実施。与那覇湾と久松地区を堤防で仕切り淡水化を図る計画を立てた。が、漁業への影響などから住民が強く反発。このため計画は中止となった。  与那覇湾やその上空では年間約〓種類以上の野鳥が確認されている。渡りの休憩所や越冬の地として自然が豊かな与那覇湾は、これからも大事に守り残していく価値の高い下地町の財産だ。  与那覇湾   以前、淡水化計画が持ち上がった与那覇湾。生活排水や土砂で濁ることもあり、今後、保全が求められている 越冬のため飛来したクロツラヘラサギ。与那覇湾やその上空では毎年〓種類以上の野鳥が確認されている 下地町々歌の歌詞が選定された当時の新聞記事。待望の「町歌」に喜ぶ様子が描かれている サラ台風で全壊した家屋=1959年 町制施行〓周年を記念した引き踊り。下地小学校の鼓笛隊を先頭に役場前から農協まで行われ、にぎわいを見せた シンボルモニュメント 「はばたき」  海に囲まれ農業が盛んな下地町は自然豊かな町。観光地として知られる前浜ビーチをはじめ、野鳥が飛来する与那覇湾やサニツ浜干潟、川満ウプカーマングローブ遊歩道などさまざまな生き物の生息地も多い。市町村合併を控え、こうした独自の名所は今後も下地町の財産として残していきたいもの。開発だけでなく、いかに現状を維持しながら自然環境を保護していくか。行政だけでなく住民たちがどう意識を持ち取り組んでいくかが、今後、宮古島全体の自然環境を左右するカギとなる。 *人口 3,342人 男性1,662人 女性1,680人 *世帯数 1,263戸 *面積23.63〓 (〓〓年8月〓日現在) 守りたい 下地の財産 第1回町民まつり。各部落が踊りなどさまざまな余興を披露し、4年に1回の祭りを盛り上げた 1995年に開通した来間大橋。離島苦で悩んでいた島の人々に農業や生活面で多大な恩恵をもたらした #Y1年(平成#G1年)#M1月#D1日 #W1曜日 1955年9月21日第3種郵便物認可 (#P) #Y1年(平成#G1年)#M1月#D1日 #W1曜日 (#P) 1955年9月21日第3種郵便物認可