中学3年の時初ステージ
小学一年のころ、ラジオから流れてくる歌にあこがれ、ただ漠然と歌手になりたいと思った。中学三年の時、教室の仕切り板を取り除き会場スペースを作り、机を並べステージにし演奏した。
東京でs年余り活動
高校卒業後上京。日産で働きながら週末はレンタルスタジオに出掛け音楽仲間を探し回った。
その後、仲間と自由に表現し練習できる場所を確保するため、昼はアルバイト夜は寝るのも惜しみ廃材などを利用してスタジオを作り、イベントも企画、ライブハウスも自分たちで作った。そこに音楽仲間が集まり「レベッカ」の高橋教之やさまざまなスタジオミュージシャンとのライブ活動、「テレサ・テン」の下地アレンジなど活動範囲を広げていくことができた。無ければ作ればいい!貪欲でパワフルな東京生活だった。そのライブハウス(現在のエクスプロージョンワークス)が日本のビジュアル系の走りで「エックス」や「グレイ」なども、そこからスタートしている。
宮古島を拠点に活動
宮古に帰った一番のきっかけは宮古の方言。二十年前母が危篤状態になり年に二、三回里帰りをした。その時、子どもたちが方言を聞くことはできてもしゃべることのできないことに気付いた。母=方言、そのことが二重写しとなり、歌を通し島の方言を残すことを決意した。帰郷後はオリジナルだけでなく、宮古民謡もアレンジし創作舞踊団体などに提供。離島のハンディはぬぐえないが、この島だからできる!この島からでもできる!そんな思いを胸に、ラジオのスタジオやレコーディングスタジオを立ち上げた。十年以上になる宮古島発のラジオ番組では郷友の方やリスナーからの励ましのメールや喜びの声が届く。下手でも続けていて良かったと思う。この島に産んでもらえなかったら、今の自分はない。多くの気付きを与えてもらい、音楽活動やクイチャーフェスティバルなどもやらせてもらっている。自分の活動の根っこには、両親がいてそしてこの島がある。多くの皆さんに感謝したい。
後輩を育てる
宮古には歌手になりたくてもオーディションさえも受けられない子どもたちがいる。そんな子どもたちの希望になれればと、クイチャーの底辺拡大を目的として「パニパニガールズ」を結成した。子どもたちに宮古からでもやればできる、そんなやる気や夢が生まれたらうれしい。沖縄盲学校高等部一年の「大城友弥」君とは、ラジオの番組にメールが届き交流が深まった。何か役に立つことがあればと、作業所造成資金集めのためのチャリティーコンサートをきっかけに、CD「ひとりじゃないから」を制作、七月にはアルバム「いのちのはな」をリリース。「パニパニガールズ」「大城友弥」ともに二枚のCDを制作プロデュースしている。孤独で地道な活動ですが、気付いたもの気付かされたものを一つ一つ形にしていきたい。 |