新生宮古の行く路

 
「私の中の三偉人」

〜後進に伝えるための一考〜

仲本 栄章

 東京への出張の際には、常 泊しているホテルがある。インターネットの環境が整い、ファックスやズボンプレッサーまで配備されているので、便利であるのと、もうひとつ理由がある。敬愛する下里恵良氏(ガキの頃から下里のおじさんと呼んでいた)が定宿にしていたからだ。城辺の出身である。マスコミからは下里ラッパと呼ばれていたが、豪放磊落(らいらく)で笑うとエクボができて愛嬌があった。
 学生時代のある日、食事に行こうと呼び出された。場所は帝国ホテル。さすが一流の弁護士になると宿泊するところも違うなと思いながら、ホテル内のすし屋に連れて行ってもらった。バリッとした板前が、目の前の水槽から生きたエビを取り出すと、ぴんぴん跳ねるエビを押さえ込みこみ、すばやくさばいて寿司をにぎった。たらふくごちそうになってお礼をいうと、一緒にホテルをでて、じゃあと片手をあげると隣のみすぼらしいホテルに入っていった。あの後ろ姿が、あれから三十七年にもなるのにいまだに忘れられない。(現在は新しくなっている)
 洲鎌清吉さんという方がいた。佐敷の馬天でサルベージ会社を経営していた。大きな人でがっちりした体格をしていた。お年玉だといっては、ズボンのポケットから無造作に紙幣を取り出した。子供の頃の私には奈良の大仏さんに見えた。学生時代に六本木・麻布のマンションを自由に使わせてもらった。オレンジ色の東京タワーの夜景は忘れられない。
 そして、ムサおじい。なぜムサおじいと呼ばれていたのか、母に聞き忘れたが、山内朝保氏。宮古の新聞界に多くの功績と伝説を残した、宮古毎日新聞社の前会長その人である。
 生まれて初めて本島を離れて旅をした先が宮古島。十七歳の夏に母の縁でムサおじいの家に泊まった。波の上の海岸で貸しボートを乗り回していたので自信があった。泳ぎにも自信があった。昼食を終えて、パイナガマの渚から漕ぎ出し、小一時間ばかりしたら眠くなってきた。しばらく経ったのだろう。頭上から声がするので目を開けると停泊した船の上から十数名の人が覗き込んでいる。岸の方をみると、かなり沖まで流されているのがわかる。慌てて方向を変換して漕ぎ出すが流れに逆らうようでうまく岸の方向に進まない。何時間こいだのだろうか、ぐったりして浅瀬で舟を引いていると、陽の落ちた浜辺にムサおじいは立っていた。雷が落ちるのかと首をちぢめていたが、終始無口のままだった。帰ってからヒデおばさんに聞くと、自宅と 浜を何度も行ったりきたりしていたという…。
 宮古島の産んだ、私の胸の中の三偉人である。優しさと逞しさと、そして何よりもプライドを大切にする、「男の生きざま」を肌で教えてもらったような気がする。今インターネットで三名の男たちを検索してみると、マスコミで無名だった洲鎌清吉氏は反応がない。
 会社の名前を探すにしても時間がかかる。数々の武勇伝もしだいに知る人は少なくなっているだろう。自分の身内でもそうだが、三代前だと系図でもなければわからない。ましてや、人柄などというと自分史や追悼集でも残っていなければわからない。今、親しくしている人も、何も記録がなければ後進に伝えようもない。例えば、自分史や、無名の人のエピソードや、披露宴のスピーチ、録音、動画、静止画、当人の許可や依頼があればすべてデジタルで保管をする。そして必要なときにだれでもアクセスができ、インターネットでウェブ検索ができるようにしたらどうか。沖縄の人だけではない。日本中のいや世界中の誰でも、どこからでも検索できるように。当然、情報も世界中から入り込むことができるようにする。悪意の情報は無論おことわりをする。
 経営コンサルタントの船井幸雄氏は大の宮古島ファンで、著書の中でも、世界中で一番「気」の感じる場所は宮古島だと言っている。島に近づくにつれて、びりびり感じるそうだ。恐山の潮来もユタも情報量ではとても及ばない。「気」が満る島、こんなとっておきの場所はない。単なる自分史のデジタル版ではなく、人類の子孫がすべて活用できるセンターを我が宮古島へ。さてセンター名をなんてなづけようか。

 仲本栄章(なかもと・えいしょう) 1947(昭和22)年6月8日生まれ。58歳。那覇市出身。日本大学法学部卒。70年に琉球電信電話公社入社。那覇電報電話局庶務課長、NTT沖縄支社沖縄情報案内センター所長、沖縄支店副支店長、エヌ・ティ・ティ・ドゥ取締役ITビジネス本部長などを経て、2003年、同社代表取締役社長。06年7月、NTT西日本―沖縄取締役副社長 

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