―ハンセン病対策と責任―

全体主義風潮が生んだ悲劇
判決6周年を前にさらなる検証を

                   石垣 義夫 (いしがき・よしお)
 

 二〇〇一(平成十三)年、熊本地裁でハンセン病隔離政策は憲法違反との判決から、この五月十一日で六年になる。
 最近、私の手元にハンセン病(違憲国賠)裁判全史九巻が届いた。
 莫大な記録なので果たして目が通せるものなのか、はじめはためらっていたが意を決して読みはじめた。
 目を通したのは、ごく一部ではあるが、それだけでも知りたいと思っていたいくつかの事柄をある程度、理解することができた。
 一九三一(昭和六)年に宮古南静園は県立宮古保養院として開設される。
 沖縄本島では、地域の根強い反対から設置が遅れ、一九三八(昭和十三)年になってからだった。
 宮古南静園の前身である県立宮古保養院の開設には、ひとつの時代背景があった。
 一九〇七(明治四十)年に癩(らい)予防法ができた。宮古保養院ができた年一九三一(昭和六)年に旧らい予防法≠ェできる。その法でハンセン病対策は強制的に隔離するように変わっていく。
 宮古南静園創立七十周年記念誌(二〇〇一年)によると旧予防法≠ヘ浮浪者、患者の救護を目的としていたが大正五年頃から内務省の発想が変り、らい根絶に向け隔離対策が強化され本籍、氏名を申告せずに入所させるようになったとしている。
 日本がどうしてハンセン病に対して強制隔離策をとるようになったかについて、裁判で証言した和泉眞藏(ぞう)氏は「明治時代、富国強兵政策のなかで、ハンセン病が拡大すると国策と矛盾する。日本が文明国入りするためには、一日も早くハンセン病を無くすというのが時代的背景ともなった」としている。
 予防法の廃止の中心的役割を果たした大谷藤郎証人は「ハンセン病についても治れば出るとの医療の考え方であった。ところが、日本の場合は一生治らないような錯覚を抱かせるような終身隔離となっていく。医学的というよりは、当時の社会の民族浄化とか、大和民族というものは優秀な民族であるというふうに国家をあげてやっていますから戦前の場合は医学的というより、そういった影響が大きかったように思います」と証言している。
 そうした意味、動きにおける強制隔離というのは、戦争になだれていく、いわゆる全体主義的風潮、ひとつの戦争犠牲のひとつだったと見ることもできる。
 治療薬ができた一九四二(昭和十八)年からハンセン病は不治の病から治る普通の病気で、しかも感染力はきわめて弱いということが解っていき、少なくとも一九六〇(昭和三十五)年以降は強制隔離の必要はなかったとされていたのに、日本の隔離政策は、そのまま続けられ、これが、あの六年前の熊本裁判で憲法違反≠ニ断罪された。
 裁判証言で和泉眞藏氏は「感染源は人以外にもあるということが解り、患者の隔離というものは、予防のためには限られた役割しか果たしていなかった」とも言っている。
 かつての医学界は隔離で、それに批判的意見を持った京都大学の小笠原(おがさわら)登氏らを大学派と呼んでいたという。
 ところが一九四一(昭和十六)年十一月、大阪で日本らい学会が開かれ、その学会で小笠原氏は「隔離を危うくする」「万死に値する」「けしからん」と攻撃され、その主張は封じられ、日本は絶対隔離へと直進していく。
 和泉氏は裁判証言で「小笠原先生は攻撃されても自説をひるがえさなかった。基本的な病因論としては小笠原学説というのは現代でも正しいといえる」と断言した。
 沖縄愛楽園の園長もした犀(さい)川一夫氏は裁判証言で次のようなことを語っている。
 当時、母親と二人暮らしの二十歳の娘さんがお蔵の片隅に押し込められ、ひどい症状でした。「治ったら帰れるから」と説得して入園させ病気は見事に治った。
 しかし、弟に嫁が来て、今さら私が帰るわけにはいかないと園にとどまったという。
 犀川氏は、沖縄愛楽園での交流会で四十年ぶりに彼女と会う。犀川氏は「あなたを、このような療養所に入れて大変に申し訳なかった」と詫びたという。
 犀川氏は「なぜ、あの時、私はプロミゾーンという薬を彼女に届けなかったのか。人間を、生涯を隔離の社会に閉じ込めるために、私は一生懸命に働いてきたのではないか、と医者としての生き方を反省させられた」という。
 多くの医学者や専門家をかかえながら、なぜに国は、きっと早くに軌道の修正ができなかったのか。
 そして、地域の私たちが、それに追従した数々の加害責任について改めて思いをいたさなければならない。

(元ハンセン病と人権を考える会宮古代表委員)

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