池 間
07/04/05掲載


1960年ごろの池間島の港にはカツオ船が所狭しと並んでいた(譜久村健さん提供)

【池間概要】
 面積2・8平方`b、海岸線長12`b、最高標高28bの平らな島。全長1425bの池間大橋で、宮古本島と結ぶ。池間、前里の2字からなる。2007年2月末現在の人口は770人(男397人、女373人)。65歳以上の人口は361人で高齢化率は46・8%。小学生は27人、中学生14人。時代の流れとともに、少子高齢化が進んでいる。産業は漁業が中心。近年は、観光関連の事業所が増えている。大漁や豊穣、子孫繁栄を願う島最大の伝統行事「ミャークヅツ」は、古き時代から現在に引き継がれている。
 ※地域版「プカラスプレス・まちからむらから」はタイトル名を「まちからむらから」に代えて隔週で掲載します。

 

カツオ漁100年の歴史

過去の栄光 今も島民の心に

 一九〇六(明治三十九)年に始まった池間島のカツオ漁は、百年余の歴史を持つ。最盛期の一九五〇年代には、大勢の人々がカツオ船やカツオ節工場で働き、島は活気にあふれていた。年月の経過とともにカツオ漁は衰退し、現在は宝幸丸一隻のみとなったが、島の人たちはかつての栄光を誇りにしている。
 池間島のカツオ漁は、鹿児島県出身の鮫島幸兵衛が池間の人々を雇い、二隻のカツオ船を操業させたのが始まりとなった。「山下丸」「朝日丸」という大型帆船だった。二年後の一九〇八年には、池間の漁師たちが共同出資で鮫島から船を買い地元の人たちによるカツオ漁が幕を開けた.
 十一年にカツオ船が動力化され、漁獲高は年々伸びた。第一次大戦終戦(一九一八年)後の好景気はカツオ漁の隆盛に拍車をかけ、県内の地域別漁獲高は毎年トップを争うまでに発展した。このころが第一次ブームで、島では当時贅沢品だったビールも大量に消費されるなど、島の経済は豊かになった。
 しかし、二九年から始まった世界恐慌の波は池間にも押し寄せ、カツオ漁は苦境に陥った。その後、池間島の漁師は苦境を打開すべく南方に渡り、カツオ漁に従事した。三九年の池間島住民の海外在住者は、百五十人に上っている。
 南方に移住していた池間島の人々は第二次大戦後、故郷に引き上げた。生粋のカツオ漁師たちは、島で漁を再開。戦後は物資不足が深刻になり、これが戦後カツオ景気の背景となった。最盛期のころ五九年のカツオ船は十四隻。カツオ節工場地帯の仲間越には、八つの工場が建ち並んでいた。船の乗組員は四百四十八人(島外百七人)。一つの工場には三十人程度働いていたというから、工場従事者は約二百五十人になる。島では人手が不足していたため、狩俣や遠くは城辺などから出稼ぎに来ていた。化学調味料の普及に伴い、三十年ほど前からカツオの節価格が下落。これに安い外国産カツオ節の輸入や近海を回遊するカツオの減少が追い打ちをかけ、池間のカツオ漁は衰退の一途をたどった。
 現在まで操業を続けている宝幸丸の船主・川満安生さん(71)が、船を購入し工場を建てのは六五年ごろ。豊漁の年は五月から十月までの操業で、百dを水揚げし、カツオ節二十dを県漁連に出荷していた。質の良いカツオ節は、キロ当たり三百円で取り引きされ、高い収益があった。現在は、価格の下落に勝てずカツオ節から観光土産用の「味付けなまり節」に転換。真心のこもった一品は今、爆発的に売れている。「工夫を重ねたら、よく売れるようになった。ブランド的なものを目指し、これからも努力したい。頑張って切り抜けなければならない」と、意欲を見せる。宝幸丸は今年の夏も出漁する。
 参考文献・大井浩太郎著「池間島史誌」

橋詰め広場の土産品店では島の名産が好評を博している「島の名産だよ」

大橋の土産売り場

観光客の列

 池間大橋の橋詰め広場に土産品店が並ぶ。店舗数は八店、十五人が働く。宮古本島と池間島を結ぶ架橋の効果が表れている。
 左手に大神島、前方に宮古島が浮かび、島と島の間に海原が広がる橋詰め広場からの眺めは絶景。同所は島巡り観光の名所となり、連日大勢の観光客が訪れている。
 観光バスは多い日で十台ほど立ち寄る。観光客がバスから降りると、土産品店の売り子たちが「島の名産ですよ」などと売り込む。土産品はカツオの珍味、黒糖、海ブドウ、島ラッキョウ、アーサなど島の香りがいっぱい。呼び声に応じ、観光客たちが商品台の前に群がり目当ての品を買い込む。
 池間大橋は一九九二年に開通。同所で土産品店を営む嵩原初夫さんは、その年の秋ごろテントの下で開店した。それから十五年。「多くの観光客との出会いがあった。観光客相手の商売は、親切な対応が大事。お礼の電話もよく来る」と振り返る。嵩原さんの店に立ち寄った客の中には、電話で注文するリピーターも多いという。
 嵩原さんは「何とか質素な生活はできる。旅行会社やバスの乗務員たちが案内してくれるおかげです」と感謝する。
 広場の東端や大橋では、カメラを手にした観光客らが美しい景観をパチリ。愛媛県から訪れた藤田恵利子さんは「エメラルドグリーンの海が素晴らしい」と話した。
 

マイクを手に連絡放送をする譜久村さん親子ラジオと共に50年
生活密着情報を発信

譜久村健さん(81歳)

 朝の六時十五分。親子ラジオから連絡放送の開始を告げる歌「恋の漲水港」が流れる。しばらくして歌の音量が絞られ、譜久村健さん(81)のアナウンスが始まる。「きょうはヒダガンニガイがあります」。連絡放送は、島の行事や冠婚葬祭、デイサービス、自治会、漁協、駐在の知らせなど幅広い。
 朝の放送は、住民にとって目覚まし時計代わりにもなる。六〇年代のある日、発電機のトラブルで放送を休んだら、児童生徒百人余りが学校を遅刻した。その時深く反省し、以来一度も休んだことはない。
 譜久村さんが一九五五年に親子ラジオに関わってから、今年は五十三年目。親子ラジオはトランジスターラジオが高くて庶民に普及しなかったころから、国内外のニュースや生活に密着した情報の提供を続け、地域の重要な情報源の役割を果たしてきた。
 当初の放送は、カツオ節工場の作業班の就業時間帯の通知が中心だった。そのうち「山羊が逃げた」、「財布を拾った」など、身近かな出来事も入るようになった。最近は下地や城辺などから野菜を売りに来る行商の到着連絡も多い。
 池間親子ラジオ社は、友人二人が五四年に開設。二人は別の仕事に転じたが、譜久村さんが、後を引き継いだ。昔から現在まで放送、集金、修理と一人三役をこなす日々。お年寄りたちから「(親子ラジオは)友達だよ」などの声掛けがあり、これが励みになっているという。「これからも愛されるラジオ、信頼されるラジオを目標にやっていきたい」と話す。
 

島の再活性化に決意新た

本村正美さん自治会長・本村正美さん

 池間はかつて、カツオ漁で生計を立てていた。現在は漁業が下火で、高齢化も進み衰退している。自治会としては、漁業と観光を抱き合わせた地域活性化を考えている。今年を島再活性化の元年と位置づけて、若者定住を促進するような仕事場をみんなで力で創出していきたい。
 島内や周辺海域の素材を駆使した体験メニューのアイデアは多い。「カツオ一本釣り」や「鮫釣り」、「素潜り漁」、「カヌー周遊」、「サンゴ観察」、「潮干狩り」、「農業体験」などの案がある。
 これらの体験観光は、ガイドを養成すれば可能になる。みんなの知恵と力を結集して島の活性化につなげていきたい。

 

かあちゃんたちの真心こもった料理が好評を博し毎日にぎわっているなかじゃ魚汁が人気

観光客の利用増える

 池間島の八重干瀬センターの一階で昨年五月二十八日にオープンしたレストラン「海のかあちゃん市なかじゃ」(野原悦子代表)は、オープンから間もなく一年。地元で取れた新鮮な魚や野菜を使った料理は好評を博し、毎日にぎわっている。
 同店の人気ナンバーワンメニューは「魚汁」。時々利用するという男性は「いい魚を材料に使っている。風味がよくおいしい」と太鼓判を押した。
野原悦子代表 レストランの営業時間は午前十一時から、午後二時まで。シャッターを下ろした後も、裏口から入ってくる客は多いが、かあちゃんたちは戻さない。そんなもてなしに観光客から「閉店後でしたのに、温かい食事うれしかったです」と、感謝のはがきが届いた。
 「なかじゃ」は「台所」を意味する方言で、池間漁協女性部が運営する。女性による地域活性化を目指すこの取り組みは、JTAの機内誌「コーラルウエイ」などでも取り上げられ、観光客の利用が増えた。
 野原代表は「ここまでこられたのは、みんなの支援・協力のおかげです」と感謝。今後に向けて「おいしい料理づくり、みんなに喜んでもらえる店づくりをしたい」と抱負を語る。
 かあちゃんたちは、加工品づくりや日曜朝市にも取り組むなど、張り切っている。