ぺん遊ぺん楽

 
日本ごはん党

与那覇 武治

<2003年
 11/26掲載>
   日本ごはん党なる摩訶不思議な党が結成されたのは平成四年のことだった。寝ても覚めても、美味しいごはんを食べることばかり考えている怩イはん好き揩フ粋人が集い、新食糧法にあえぐ米農家を応援していこう、と旗あげしたのだ。党首は髭の作家嵐山光三郎である。
 日本人がおこめを食べたのは千二百年前にさかのぼる。おこめは理想の食品となり、古人が米作に精通した結果、水田が増え、今日、だれでも食べられるようになったおこめだが、これには先人たちの、なみなみならぬ汗と時間が費やされてきたのだ。水田は日本の宝であり、先人が残してくれた命の泉である。日本の伝統、歴史、文化が米一粒の中に込められており、米一粒の中に稲田霊が宿っていると信じられている。日本人が正月に鏡餅を備えたり、お祝いの日に赤飯を炊いたり、全国各地で見られる祭事に、米や餅を神前に供えて五穀豊穣を祈る儀式や風習は、先祖にたいする感謝の念が込められたもので、世界に誇る日本の文化である。
 昨今はブランド米のオンパレードだが、ご飯は何といっても精米したてが美味しい。いったん精米してしまうと、米は生鮮野菜のように、どんどん食味が落ちていくからだ。美味しいご飯を食べるためには、いかに精米したてのお米を食するかにかかってくる。宮古島でも、気鋭の米販売店では店頭に精米機をおいて、売る直前に精米する店が出てきた。食べるごとに精米すれば、どの銘柄でも格段にうまくなること請け合いである。
 日本の穀倉地帯と呼ばれた台湾で、突然米の配給が途絶えて飢餓に襲われた。大混乱の引揚げ、母の後ろを必死に追いかけて貨物列車に押し込まれた。阿鼻叫喚の修羅場を体験したのは、小学三年の年である。雨の港街キールンでは、少年窃盗団の一味となった。初めて稼いだお金で、憧れのゴム靴を買い求めドンブリ飯にありついた。力の弱い子供たちは哀れであった。みるみる栄養失調に陥り、頭髪が抜け落ちて歩けなくなるのだ。飢えた北朝鮮の子供たちとそっくりであった。基隆の岸壁で見た惨状は、生涯忘れる事が出来ません。
 世は、すきな時にすきなものを食べることができる飽食の時代である。東京都から出る一日の残飯は五万食分に相当するという。沖縄県は日本一の残飯排出県と聞いてあきれるばかりだ。喉もと過ぎれば熱さを忘れるというが、われわれ日本人は食(米)にたいする認識が希薄になり、感謝の念というものを忘れてしまったのだろうか。
 ともあれ、米を中心に料理された日本型食事は、バランスの良い健康食として今では世界中に認められ、主食を米に換えたい、とする国まであるほどだ。あなたも、美味しいごはんを見直して、ごはん党になりませんか?
 党則(目的)第2条 「日本ごはん党」は、日本のごはんが持つ美味しさや数々の良さについて広く伝えるとともに、ごはんを中心とした日本型食生活の素晴らしさ並びに稲作の重要性について強くアピールすることを目的とする。但し、「日本ごはん党」は政治的な活動には携わらない。
 (宮古ペンクラブ会員・会社社長) top.gif (811 バイト)