ぺん遊ぺん楽

 

存命の喜び 日々に
たのしまざらやんや


下地 康嗣

<2003年
 11/11掲載>
  わが家のマンゴ、エッグフルーツ、グァバ、ビワ、バナナなどが台風十四号で壊滅的にやられた。アセロラは根が動いたのか完全に枯死した。バナナを除けば数本だから大袈裟に言うまでもないが、塀とは別に裏隣りなどとの境界の役目を果たし、奥行きと、手前にある菜園との調和ある風景をつくっていた。いつからか桑など小鳥が持ち込んだ雑木も混入し、自然に放っておくのだから、特に実りを期待しているわけでもない。しかしすっかり坊主になり、乱雑な舞台裏を見るような景観は、なんとも侘しい限りである。
 それでも十日も経つと残った幹から若芽が吹いている。これは感動的で見るものの心を打つ、それはまさに生命の息吹であり、苦難を乗り越えるかのような、その活力は、厳粛さをさえ感じさせる。
 最近、特に幼い子らに心惹かれるようになった。その純真無垢な姿にこそ、夢や無限の可能性が秘められており、いずれは人生の荒波に翻弄されることもあろうが、発展的な未来に向かう時間と空間、そのことへの羨望が、身も心も老いさらばえていくものの心情なのかもしれない。
 古来稀なると言われる齢も目前で、年を重ねる度に、残りを如何に生きるかに思いをはせる。仕事やボランティアなどで積極的に社会に尽くすのが最も良いのだが、これとて自分の趣向と馴染むものでなければ旨く行かず、付け焼き刃では、ストレスを生むのみであろう。
 最近は消極的ながら、健康に配慮し、できるだけ医療などの世話にならぬように心掛けるのが一番との悟りを得た? そうは言っても、思い通りにいかぬのが人の病や生死である。愚かものとの謗りは免れないが、ほぼ五人に一人は老人の高齢社会、その医療費が如何に莫大で、この国の財政を圧迫しているか、数字を上げるまでもない。健康に生きる、そのことこそが、社会への大きな貢献なのである。
 老人は自分の趣味に生き、生活をエンジョイすべきであり、そのことが社会を明るくもするし、更に誇張すれば、日本経済の活性化へ繋がるのである。何処かの政治家のようなことを言ったが、間違っても「濡れ落ち葉」「引きこもり老人」などと言われぬことであり、不健康になる要素をできるだけ排除すべきである。わが理想は、裏の小さな菜園を耕し、エージ・シューターは夢のまた夢だが、八十歳までゴルフが出来、碁が打てればと思う。神仏の思召し次第だが、あとはコロリと逝くのがいい。
 「徒然草」の九十三段に次のような件がある。「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々の楽しまざらんや。…生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るゝなり。…」
 これは更に進んで、いずれ訪れる、死と向かい合いながら、生きることの究極の姿を述べており、「日々を楽しむ」ことの意義をよく言い得ているように思う。
 (宮古ペンクラブ会員・元校長) top.gif (811 バイト)