ぺん遊ぺん楽


ぶなくいの悲恋

松原 清吉(まつばら せいきち)


<2006年03/04掲載>
 平良の中心街から南へ約三キロ、車だと約五分程の所に野崎(ヌザキ。)という集落がある。今ではその呼称もあまり使われなくなり、ほとんどの人が久松と呼んでいる。野崎は久貝、松原の二カ字をまとめた呼び方だが、小学校が創設された時に両字の頭文字(久貝の久と松原の松)をとって久松と呼ばれるようになったと聞く。私の生まれ育った所だ。
 クイチャーあやぐには /まやま座(久貝の集会所)の大梯梧/世直らでのがら/野崎二原うそいなかぎさ。と歌われている。
 ところで歌の中に出て来る野崎二原とは野崎の二カ字という意味で、久貝のことをフガバラ、松原のことをマツバラと呼んでいたことから野崎二原と言ったのであろう。
 久貝と松原は道一つだけで隔たれている。少し入り込んだ所ではどちらが久貝でどちらが松原か住んでいる人でさえも分からない程くっついている。その境界線上の海岸に入江がありピダと呼んでいた。最近になっていろいろな文献を読むと「大泊」とか「親泊」という字をあてていることに気づく。野崎は海に近い集落とあって今で言う海人が多かった。また漂着民の話や「寄木の主」の話など宮古の歴史にまつわる言い伝えも数多く遺されている。次の話もその一つだ。
 御船の親が琉球へ行った際の水先案内人を務めた人も野崎村の野崎真佐利であった。御船の親一行は宮古へ帰る途次嵐にあい、南の島「アラフト」という島に漂着したとのこと。御船の親はそこで捕らえられ殺されるのだが、野崎マサリャは持ち前の才智を働かせて土人たちの舟を奪い無事に「親泊 =ウプドマーリャ」に辿り着いたと伝えられている。
 さて、御船の親には「ぶなくい」という美しい夫人がいた。御船の親が遭難してからは食事もとらないほど嘆き悲しんでいたが月日がたつにつれ、周囲のたってのすすめもあって砂川の戸佐と再婚をする。しかし再婚してからも御船の親のことが忘れられず、
 /赤ばに髪ぬ頃んから みまゆつき頃んから イラカナス ウーニヌ主ユ
 /貴方ゆてぃど思ゆたす かなしゃゆてぃど 見くんたす
(平良重信著『宮古民謡工工四』から)
 と歌い思い焦がれていたという。前夫のことをいつまでも恋い慕う「ぶなくい」の姿を見るにつけ、嫉妬に狂った戸佐は暴力を振るうようになり、その暴力に耐え切れず「ぶなくい」はとうとう死んでしまう。戸佐も首を縊って後を追い「ぶなくい」の悲恋は結末を迎えるのである。
 ところで無事に帰った野崎真佐利は御船の親の死のてん末を「ぶなくい」にどう告げたのだろうか。ちなみに御船の親の墓は新里にあり、野崎真佐利の墓は鏡原にあると聞くが詣でたことはない。
 先人の書いた歴史書をひもとくと、宮古の人の辿った心の軌跡が見える。この「ぶなこい」の話も宮古島庶民史にもっと詳しく書かれている。
 およそ三十年前に書いた原稿を読み返しながら今回のテーマとした。

(宮古ペンクラブ会員・元学校長)

 

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