ぺん遊ぺん楽


青年会活動の頃

石垣 義夫(いしがき・よしお)


<2006年03/01掲載>

 宮古毎日新聞で記者をしていた頃の一九六三(昭和三十八)年、働いていた新聞に「スポーツ青年会からの脱皮を」との投書を書いた。
 これが、あの頃の宮古郡青年団協議会再建への、ひとつのキッカケとなった。
 あの頃、郡青協の会長は熱血漢で知られていた兼島方勇さんだった。その頃になると活動といえば、当時盛んだったバレーボール大会の主催が主な行事となっていた。
 一九六三年代といえば、沖縄の祖国復帰運動が盛り上がっていた時期。「スポーツ青年会からの脱皮を」というのは、あの頃の若者を取りまく課題への取り組み、祖国復帰運動というものに青年の立場から担っていこうというものだった。
 郡青協を再建しようとの機運は強まり、まずは郡青協の解散をしてもらうのが先と、何度か、当時の会長と話し合い、快く会長が辞任に応じてくれたため、郡青協の再建に乗りだした。
 そのうち郡青協の結成の前に、その母体となる市青連からというわけで一九六三年十月三十日に市青連が結成され、私は事務局長となり二年後に郡青協は結成された。
 その頃、日本青年団協議会との沖縄闘争をめぐる交流も盛んになっていた。
 特に熱心だった長野県は、沖縄への交流団派遣には一切の団費を使わず、各家庭をめぐって沖縄問題を訴えカンパをもらうという徹底ぶりだったという。
 市青連の頃、北緯二七度線(本土の最南端・与論島と沖縄の最北端・辺戸岬)での沖縄返還海上集会には、宮古代表七人のうち四人は市青連からだしていた。
 青年会の別動隊ともいうべき歌声活動も活発になった。あちこちの公民館における活動では、まず歌声を入れると青年ばかりか子供や婦人たちまで珍しがって歌声に参加するといった具合だった。
 活動は多岐にわたった。あの頃、結成されたばかりの、当時「給仕さん」と呼ばれた学校従業員労働組合の支援のため歌声を兼ねた遠足をしたりした。
 確か、あの頃の学校従業員の給料は十七ドル程度。そうした面での待遇の改善を求めていった。学校によっては、夜遅くまで職員(先生)方の面倒までみなければならないといった実情を、どう打開していくかなど真剣に論議をしていった。
 官制の成人式から青年主体への成人式運営へとの試みもなされた。そのため成人式の第一部は青年主体の歌声で盛り上げられた。
 青年会の活動家たちによる歌声サークルは広く認められ、当時の本土就職合宿訓練のレクリエーション指導をまかされたり、現在の役所敷地内にあった旧オグデン会館では毎月、第二、第四木曜日の歌声例会が続けられたりして、青年会活動が最も輝いた頃だった。

 (宮古ペンクラブ会員・団体役員)

 

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