ぺん遊ぺん楽



三味線を心の花として

渡久山 春英(とくやま・しゅんえい)


<2006年02/18掲載>

 沖縄大百科事典によると「三味線」と書いて「さんしん」の読み仮名がつけてある。したがって、表題もその通りにした。
 最近の宮古は三味線の花盛りである。どこもかしこにも三絃の沖縄の旋律が心を和ませてくれている。ほとんどが本土からのIターンの若者たちである。天気のよい日の昼下がりから夕刻にかけて、パイナガマビーチの階段や東屋に、男も女も三味線を抱いて、楽しく宮古の生活を満喫している。ある人は工工四を注視しながら、ある人は多くのレパートリーを熟し、各人各様である。皆さんは工工四に忠実であるから、その腕前は堂に入ったものである。沖縄ブームに乗じ沖縄音楽の旋律に魅せられて、異郷の地で人生を謳歌している。ホームシックの解消には三味線が最良の武器であろうか。三味線三昧だ。
 「宮古民謡の歌詞の意味はわかりますか」「全くわかりません」「宮古の方言は言えますか」「全然言えません」。当然の答えだろう。歌詞の意味もわからない、言葉も言えない人たちが、宮古の芸能文化に心をひかれ、三味線を心の花として奏でる姿に敬復するばかりである。本土出身者にとって海がきれいだそうだ。美しい海原を眺めながら、宮古民謡を楽しむ心境は至福への歓喜そのものであろう。「ちゅらさん効果」が大きな力になっているだろうが、それにしても宮古の家庭にちゅらさん家族のような、三味線一家が欲しい。家庭に三味線を、くちびるに歌を。
 東平安名崎に「人力男」と称する人がいる。佐々木裕一氏がその人だ。人力車で観光案内をしている。福井県から移住して九年目だそうだ。宮古の歴史物語や自然の雄大な眺望の解説を聞いていると、プロを思わせる念の入りようである。何よりも琉球三味線の弾き語りが観光客を楽しませている。持ち前の明るさと情熱は圧巻だ。佐々木氏は宮古のしま興しの一役を担っているようにさえ思えるのである。砂川幸吉三味線教室で特訓を受けている身でもある。
 多良間には早くから首里王府の芸能が伝えられた。それは、宮古島を通り越して役人たちが、三味線や舞踊などの古典芸能を手土産に赴任したからである。若衆踊り・二才踊り・女踊り、組踊りも王府の栄華を偕楽した。島の男たちは舞台役者と相成るのであった。
 役人と生活を供にした現地妻と子供は、役人の転勤によって生き別れという悲しい運命を背負わされた。それは最初から仕組まれた悲劇でもあったのだ。そのような時代を背景に作られた歌が「多良間しゅんかに」である。しゅんかにとは、琉歌の「しょんがない節」がルーツである。これが「しょんがねえ」「しゅんかに」と変化した。しょんがない節には、宮古・八重山の在番役人と現地妻との別れの歌が十五首ある。因に日本語の「しょうがない」が語源である(あきらめの意)。多良間「しょんがねえ」を「しゅんかに」とも言い、与那国「しょんがねえ」を「すんかに」と発音するように「しょんがない」が地域によって変化したのである。
 以上、多良間の歴史的背景の一端を述べたが、要するに、明治十二年の琉球の廃藩置県以前の宮廷古典音楽が、多良間に伝わっていたのである。国指定の八月おどりがそれだ。
 宮古圏域に宮廷古典音楽や古典舞踊が普及したのは、「島袋本流・紫の会」の進出により、亀浜律子琉舞練場の師匠の郷土愛と天性の指導力の賜である。離島の悪条件を乗り越え、琉舞への執念を燃やした師匠の熱意と努力は、筆舌に尽くしがたいものがある。
 手前味噌だが、私は古典音楽を勉強してから久しい。私の先生は教え子たちである。三味線は楽しい。今年は丙戌、旧暦は閏年である。希望の年であるよう大きく生きたい。
(宮古ペンクラブ会員)

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