ぺん遊ぺん楽


言葉の魔術「法」に気をつけて

清水 早子
(しみず はやこ)


<2006年01/11掲載>
 朝、騒音に目覚め、窓から首を出すと伊良部大橋が数珠つなぎの軍用車で埋められ、戦車までつづいている。空にはいつもの訓練機ではなく、自衛隊機と米軍の戦闘機が飛び交っている。市内まで買い物に出かけると、イーザトは米兵が闊歩(かっぽ)し、いたるところで交通規制がなされている。帰宅すると、田園マルチのお役所放送でサイレンが鳴り響き、「国民保護法により避難の誘導をこれより行いますので指示に従ってください」と叫んでいる。というような、こんな物騒な初夢はご免こうむりたい。
 今年の年明けは、快晴とはいかなかったが暖かい穏やかなお正月だった。つわ蕗(ぶき)の黄色い花も開き、水仙の葉も凛と伸びてきた。いつまでもこの穏やかさでいたいものだ。
 昨12月13日の県紙に「国民保護計画の県案判明」という記事が載った。「基地や離島といった地域の実情に応じ、基地周辺の住民の基地内避難や、宮古と八重山の離島の住民はいったん宮古島と石垣島に避難した上で、沖縄本島や県外に行く二段階を想定」とある。基地周辺自治体や基地労働者からは「かえって攻撃の標的になる」という不安や、太平洋戦争時の戦争マラリア体験者からは「住民より軍の都合が優先された歴史の教訓に学んでいない」と批判が上がっている。
 有事法制関連の国民保護計画では、避難時の土地や家屋の使用などの私権も制限される。「国民保護」という優しい言葉で実は、国家の保全のために人々が切り捨てられたかつての「棄民政策」を沖縄県民は想起する。
 この数年、ネーミングと名目は優しげな、その実怪しげな「法」案がつぎつぎ上程・可決また継続審議となっている。メディアもこの頃は声が小さいので、うかうか日々の暮らしに追われていると見過ごしてしまう。昨11月1日には「障害者自立支援法」が成立した。障害者のサービス利用料がこれまで所得に応じた「応能負担」を、費用の原則1割負担とする「応益負担」に変更される。障害が重くなるほど、増えるトイレや食事の介助など生きるために不可欠な介助も「益」として定率負担を求められ、負担増は避けられない。所得保障はしないで経済負担は増える一方だ。関係者は「障害者自立支援」ではなく、「障害者虐待法」だと憤っている。
 また、「共謀罪」という犯罪行為を話し合うだけで罪になるという法律も審議されている。犯罪行為が裁きの対象になる近代法の原則からも外れる。組織犯罪対策だというが、摘発の対象となる組織を暴力団などの組織に限定しているわけではなく、団体の定義もあいまいだ。該当犯罪は六百を超え、多様だ。語り合うことだけで罪になる。現行政府に批判的な言辞を語り合うことが犯罪とされる。労働組合や市民団体の規制にも適応可能だ。思想・信条に自由や表現の自由をたやすく侵害できる悪法だ。人々の頭と心の中まで監視・支配しようというのだろうか。「通信傍受法」=「盗聴法」によって犯罪対策という名目でプライバシーを侵害し、監視する。誰かが「こんなことを言っているのを聞きました」という伝聞が、密告となり冤(えん)罪を生む。人々は疑心暗鬼となり、相互不信となり、分断される。そんな息苦しい社会に向かいかねない法は、願い下げだ。
 なのに、また昨12月27日、政府の「犯罪被害者等施策推進会議」(会長安倍晋三官房長官)は「犯罪被害者基本計画」なるものを閣議決定した。日本新聞協会からも反対の声明が上がっていた「犯罪被害者の名前を実名・匿名どちらで発表するかの判断は警察に委ねる」項目の削除や修正には応じないで原案どおり決定された。メディアの犯罪被害者への「集団的過熱取材」への配慮だというが、犯罪被害者の実名が明らかにされないということは、事件のありようそのものが明らかにされないことになりえる。何処で誰がどのような目に遭っているかがわからなくなる。実名か匿名発表かを、犯罪被害者自身が決定できるならともかく、警察に委ねることは疑問だ。権力による人権侵害が引き起こされた場合、ことのありようは簡単に封印され、力を持たない人々はそのありようを明らかにして共有する手立てを失ってしまう。ジャーナリズムが危惧(きぐ)するように、報道の自由は大きく制限されるだろう。
 私たちの手の届かぬところで、私たちを絡める網が張られようとしてはいないか。そんなことを心配しないで、新年の盃を交わしたいものだ。

(宮古ペンクラブ会員・自由自在空間久松館)



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