ぺん遊ぺん楽

 
図書館との出合いから…

仲宗根 將二(なかそね まさじ)


<2005年12/28掲載>
 図書館の存在を知ったのは、国民学校(現小学校)低学年のころである。とはいっても当時はただ傍を通っただけで、利用したわけではない。平二校(現北小)に隣接する宮古支庁の裏に木造瓦屋根平家の宮古図書館はあった。休日に「ンマ大将」にしたがって、裁判所裏の茂みに群れをなす小鳥を捕えに往来しながら、トンビャン(龍舌蘭)の密生する石垣沿いの窓越しに眺めるだけであった。
 そのころ平良のまちには西里通りに面して、大野書店という教科書も扱う大きな本屋があった。平良で、否宮古で唯一の本屋ではなかったろうか。級友のなかには時折り学校に「少年倶楽部」などの雑誌を持ってくるのがいたが、「のらくろ一等兵」とか、「冒険ダン吉」などのマンガが一〜二頁ていどのっていた。皆でうらやましげに肩越しにのぞきこんだものである。
 図書館にもこんな面白い「本」があるのだろうか、と思うこともあったが、どういうわけか図書館は出来のいい子が出入りする所なのだ、と思いこんでいたように思う。「沖縄戦」必至の状況で、南九州に疎開したが、疎開先の国民学校の隣りにも公共図書館があった。利用することもないまま、日本の敗色濃い八月十一日夜、学校も図書館も周辺民家の大方も、米軍の大空襲で灰尽に帰した。
 敗戦後しばらくして、新制中学の初めての一年生として入学したころ、焼け跡のバラック住居にまじって本屋も一軒誕生した。下校時、時々そっと立ち読みしたが、「少年クラブ」などにまじってマンガもあった。手に取って驚いた。確か主人公は大きな大学生の角帽をかぶった、あどけない少年で、横山隆一描く「フクちゃん」といったのではなかったろうか。薄っペラとはいえ、表紙の次の頁から最後までマンガなのだ。生まれて初めてみるマンガばかりの「本」、すごいなと思った。ぜいたくに思え、一瞬大丈夫なのだろうか、とさえ思った記憶は今も鮮明である。
 何しろ寝てもさめても、「軍歌」と、「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」「鬼畜米英撃滅」等々のスローガンの中で暮らしていたのだから。マンガばかりで一冊の本が出来ているなどと信じ難いことであった。
 二浪して入った高校では図書館を教室のように出入りした。それまでの無為に過ごした時間を取り戻すかのように…。伊波普猷を知り、その著『古琉球』を初めて手にした。同じころ山之口貘の詩集『思弁の苑』も知った。著作物から入ったというより、肩書きにひかれたのではなかったろうか。伊波は沖縄県出身初の東京帝大文科大学出の言語学者であり歴史家であると同時に、中学の教科書で習ったアイヌ語の金田一京助に一期先輩、貘は同じく沖縄県出身で、教科書にも出る佐藤春夫や金子光晴、草野心平らの詩人と交友関係をもつ詩人であることを知った。
 名前を知ってから著作物に分け入る形での読者であった。日本国内で他に類のない、地域性豊かな歴史と文化をもち、それゆえに時として、そこは異国(外地?)ではなかろうかとみなされることもある、琉球・沖縄史への導入であった。
 帰郷後は慶世村恒任の『宮古史伝』や稲村賢敷の『宮古島庶民史』に出合い、砂川明芳氏からは生きた宮古史の考え方を教わった。琉球・沖縄史のなかでも宮古は人口数万にしか過ぎないが、又ひときわ地域性豊かな歴史と文化をもつことを気づかされた。
 ことさら言うまでもなく、「日本国」の歴史そのものが、本来北海道から沖縄県まで同時出発したわけではない。陸つづきで交流が密なるほどに共通性は濃く、政治や文化の中心とみなされる所からは遠く、山河や島ごとに区切られ疎遠なほど共通性は稀薄になる。さらに中央権力にとっての重要(利用)度の当否にも大きく左右される。それゆえあえて「単一」などと一くくりにしようとするところにうさん臭さがつきまとう。大局的には「ヤポネシア論」に行きつかざるを得ないのが、南北三千キロもある、この列島の歴史的必然性であろう。
 過日、平良の中央公民館で開かれた図書館関係研修会の準備をしつつ、十代での図書館との出合いが今日につながっていることを今さらのように思い描いていた。「日本国」は再び戦争する「大日本帝国」へ戻りたいのであろうか…。
  (宮古ペンクラブ会員・宮古郷土史研究会長)

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