ぺん遊ぺん楽


103歳の大女王
 
-痛みもなく往きたいね


垣花 富夫(かきのはな とみお)


<2005年11/16掲載>

 「なんと言ってもご高齢だからね。背骨が潰れちゃって、ここ、ここですよ」とレントゲン写真に写る箇所を指しながら「一種の座骨神経痛というものです。痛みは治りません」。
 診察した医師は続けて、高齢で内服薬や痛み止めの注射にも限度があり、副作用も出るので難しい、痛みを耐えながらの生活ですとの診断であった。
 「どうしますか」医師は、私とケアマネージャーで付き添いの森田淑子さんに目を向ける。
 私がY病院に呼ばれたのは、母が入所している老健施設「東雲の丘」からの電話であった。病院通いに慣れたとは言え、高齢の母のことであるから気が許せない。自宅から近いその病院に取り急ぎ行くと、そこにはすでに森田さんが先に来て、母の面倒を看てくれていた。仕事とは言えいつもの事ながら頭が下がる。
 両目にハンカチを当てながら、痛みに耐える年老いた母は、病院にくれば治ると信じているだけに余計胸が痛い。私は決断の結果、今までの処方を変えて内服薬と注射を希望した。
 しばらくして、診療を終えた母は、注射が効いたせいか痛みがやわらいだようで、その老いた顔に笑みを浮かべながら「あがい、向こうに行く時ぐらい痛みもなく往きたいね」と軽く冗談をこめて言う。「向こうってどこよ、アメリカね」と私は返したが、本人にすれば冗談でなく何か胸の内に去来するものがあるのだろう。我慢強い母は座っていても痛いと言うから余程きついと思われる。痛み止めも一時の気休めなのだと気が重くなった。
 しばしの会話も終え、痛みのやわらいだころ合いを見計らって母は、森田さんの車で入所先の東雲の里へと帰って行く。私は薬局へと向かう。実の子の私は、付き添いの付き添いばかりで森田さんに世話になった。
 思えば6年前、母は私たち家庭の事情もあり東風平町にある老健施設M苑に入所することになった。入所を決め住み慣れた家を出る玄関先で、「行ってくるからね」と、小さい声で言った言葉が昨日のように今でも耳に残る。これから行くM苑は私の末弟の妻政子さんのお世話で期限付きの入所ではあるが、今朝の小雨がやけにうっとうしい。M苑は、私の住む南風原町の隣町にあり小高い丘に建っている。そこまでの道のりは畑と原野と人家が混在する農村地域で行き交う車の量も少ない。道すがら流れる窓外を見ながら、母は「富夫、遠いね」と独り言のように呟く、車中のバックミラーから見る母は口を少しとがらせながら、軽く呼吸する癖がでた、ため息とは違う。
 この辺りは天気の良い日にはドライブコースにもなるが、今日のように天気が悪い日にましてや施設入りとなると、さすがに心細くもなろう。「もうじきだからね」と私は言葉を返すのがやっとだった。母の淋しさを感じたとき、ふと「姥すて山」の小説楢山節考のことが頭に浮かんだ。
 小高い場所にあるM苑がいかにもその楢山に見え、母のこれからの行く末を哀しくも侘びしくも思えてならなかった。これが母の老健施設の生活のはじまりである。
 しばらくM苑にお世話になった後、幸いに義妹の世話により現在の東雲の丘・グループホームに移り今に至っている。一戸建てのこのグループホームは、リビングルーム、娯楽室、食堂の他に居室が10部屋ほどあり、戸外は環境も良くホームヘルパーや、介護職員の皆さんも親切で面倒見もいい。
 押し車に座っても隠れるほどに小さくなった母は、過去に食道ヘルニア、股関節骨折、白内障と大きな手術を乗りこえながら明治、大正、昭和、平成にわたり四世代を台湾、宮古、那覇、名護、南風原と居を変えて、今は大里村在のこの東雲の丘で、明治生まれの103歳を迎えた。誕生月の6月をクリアした現在、記録更新中の大女王である。数年前までは好きで唄う「安里やユンタ」を細くて高い歌調でよく口ずさんでいた。この稿を書いている午前零時、あの頃に唄った母の姿に思いをはせ、昼間の痛みがやわらぐことを祈りながら、高齢で老い往く事に感慨を深くした。 
 (宮古ペンクラブ会員・ぱいぬ島文芸会長)

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