ぺん遊ぺん楽


知恵遅れ

近角 敏通
(ちかずみ としみち)


<2005年10/19掲載>

 世の中に産まれる「知恵遅れ」と呼ばれる人は、二百人に一人と言われる。知恵遅れというと、随分、気の毒であるが、聞くと、つきあうとは大違いである。
 大学受験に失敗して、浪人中、進路に迷っていた。「特殊学級の先生ならやれるか。特殊学級の先生になっても構わない」そんな思いがあって、千葉にある施設を訪ねた。窓ガラス越しに朝のラジオ体操をしている姿が見えた。気持ち悪かった。怖かった。そのまま、坂を走り下りながら、身を落とす感覚と共に、他に道は無いと感じていた。 
 大学の特殊教育学科に入った。サークルも障害児問題研究会・子ども会に入った。そこで、小一のダウン症の子とつきあった。びっくりした。とっても楽しそうに遊ぶから。鳩を追いかけ、蝶を追いかけ、塀を乗り越え、目はきらきらしていた…生きる理由を手探りしている自分と比べて、あまりにも自由だった。その影響で、一年休学・自活。自分の感覚が蘇った。卒論は、知恵遅れの人の強い存在感を説く、老荘思想と国木田独歩の「春の鳥」と坂口安吾の「白痴」と山本周五郎の「季節のない街」で書いた。
 そして、横浜の養護学校に就職した。多くの子どもと出会い、心洗われ、楽しい活動をたくさんやった。中でも印象に残るのは、焼物作り、舞台劇作り、自然散策である。こんなに素敵な子たちを学区から離れた養護学校に押し込めていてはもったいないと思い、地域の中学校に転勤し、やはり、そこで出会った子たちと、かけがえのない時間を過ごした。
 教職十九年。退職し、やがて、伊良部島に漂着した時、受け止めてくれた島の人たちの中に宮古養護学校の卒業生がいた。かぼちゃの袋を背負いながら、彼と約束した事は、その冬、キビ刈りのグループを一緒にやろうという事だった。琉球諸島漂泊の三カ月後、伊良部に戻った。約束通り、彼とは三年間、同じキビ刈りグループで働いた。最後の一年間は私が班長をやった。彼は、今、かつて、私がやった事、即ち、みんなを車に乗せて、キビ刈りやキビ植えに出向く事をやっている。出会えば、その目は相変わらず優しい。結婚できたらいいね。仕事がたくさんあるといいね。また、別の養護学校卒業生が毎週金曜日に働きにくる事も二年近く続いた。二人でよく笑い、よく働いた。
 みやこ学園の面々には、演出を担当した市民劇「希望」に出演してもらった。出演に反対する人もいて、その可否を確かめに、学園に出向いた事があった。直訴船の船出とクイチャーの場面を一緒にやった。そののりはよく、皆で汗だくになった。彼らも含めて、その場面の成り立ちを確信できた。今も、時々、露店出店の仲間として出会うが、やはり、なつかしい人たちである。
 この七月、縁あって、宮古養護学校高等部三年生二名の就業体験を畑で受け入れた。誠実な働きぶり、あたたかな人柄、木陰のお弁当…やはり、心洗われる二週間だった。牛糞のかき出しをしている時、牛が脱糞、一人が素早くスコップで受け取ると、一人が「ナイスキャッチ!」と言った。笑った。お弁当のおかずは分け合い、その場で作るアロエヨーグルトを一人は「美味!」と言った。仕事始めと終わりは「エイエイオー」と声を合わせた。三名で力を合わせ、堆肥を入れ、ローゼルを植え、アロエベラを植え替え、畑は向こう百メートル、ピッカピカになった。一人は小学生の頃から知っていたが、二人とも見通しがもてるとめざましく働いた。来春の二名の進路が問題だ。受け入れる職場が必要だ。福祉行政の支援も不可欠だ。「共に生きる場を支える」そのための行政であり、税金である。
 知恵遅れとは、その人たちの一つの呼び名であって、つきあえば、深い人間性に満ちた純粋な人たちである。場を得れば、素敵な力を発揮する。もとより家族や先生方はその事をよく感じていると思う。問題は社会だ。学校で、職場で、生まれた地域で、島で皆が彼らを尊重して、共に生きていくあり方を深めていきたい。
 (宮古ペンクラブ会員・農業)

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