ぺん遊ぺん楽


   
未来からの留学生に何を残す


下地 康嗣(しもじ やすし)


<2005年10/05掲載>
 世の中が便利になればなるほど失っていくものが多いように思う。地球温暖化は着実に進み、環境破壊は知らず知らずのうちに進行している。いろんな電化製品に囲まれ、家庭生活はかなり便利になったはずだが、ちっとも充足感がない。夫婦共稼ぎというよりも、社会の風潮が生活様式を変化させ、親と同居するのが面倒だから核家族になり、子育ても大変だから子を生まなくなる。パラサイト・シングルが増え、ニートが増える。
 以前は道を歩くと赤ちゃんの泣き声が聞こえてきて、それだけで暮らしの賑やかさを感じたものだが、赤ちゃんをあやすとか、孫と連れ立って遊ぶ姿など、そうした風景が周りからどんどん消えていくかのように思う。
 作家椎名誠氏が面白いことを書いている。ネパールやチベットの山岳遊牧民の子どもたちは星にあまり興味がない。ロケットや飛行機などの空想画は描いても、星は描かないそうである。生まれたときから満天の星のもとにいるから星空などどうでもいいのだろう。
 モンゴルの草原放牧民は花に興味がない。見渡す限りのエーデルワイスの群生があるのに、その花の名も知らず、関心もない。季節になるとあたり一面に色々な花が咲き乱れる風景を見ているから、その程度のことはどうでもいいのだ。
 サンゴの海に囲まれている我われは、見慣れた風景に無頓着になっている。石垣島・白保のサンゴ礁の海に空港をつくろうとしたりする。バブル時代の発想とはいえ、コースタルリゾート構想によるトゥリバーからウパーマ(大浜)へと連なる一帯の埋め立て地、いわゆるトゥリバー地区の利用も進まない現状を思うと、そのことが一種のしっぺ返しとなっているようにさえ思える。原風景へのイメージも今は戻らない。
 子どもの頃から目にしてきた、ありふれた景観や生活、馴染んできたいろんなことを疎んじてならないと思うこの頃である。あまりに身近で、当然のことのように思っていることの中に極めて大事なものがひそんでいることに思いを致さねばならない。
 五十年後の未来予想なるものが、NHKで放映されていた。現在の車はリニアモーターカーに変わり地上から浮き上がって走る。宇宙ステーションにもエレベーターで容易に行き来するようになる。ロボットが全ての仕事や作業を代替することになる。
 科学の進歩は人類にとって、ほんとに幸せをもたらすものとなるかどうかは、人々の日々の生き方に掛かっているように思う。
 ピエール・プールの「サルの惑星」は西暦二千五百年の話だが、人に代わりサルが支配するというのは、笑い話とは思えなくなってきた。あるいはサルの代わりにロボットを置き換えてもよい。
 子どもたちは未来からの留学生といわれる。未来の子らにわれわれが残さなければならないのは、エーデルワイスが咲き乱れていても、それに関心がないほど、それがごく自然のことであることなのかもしれない。

  (宮古ペンクラブ会員・元校長)

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