ぺん遊ぺん楽



つれづれなるままに

伊良部 喜代子


<2005年08/27掲載>
 三十数年間ずっと本土で暮らしていた私が、会社員の夫の転任により、思いがけず沖縄に住むこととなった。おそらく二、三年の短い期間であろうけれど、沖縄に住めることは、夢のように嬉しいことだ。
 四月末。仙台の家を閉じて、那覇の新都心と呼ばれる一画に落ちついた。そこは数年前まで米軍人の家族用住宅地であったとのこと。新しいマンションや店舗が建ち並び、現在も建築ラッシュが続いている。同じ沖縄とはいえ、沖縄本島には山も川も深い谷間もあり、故郷の宮古島とはかなり趣がちがう。那覇は思っていた以上に大都会だ。本土の地方都市と比べても決して見劣りしない。
 突如、天地を切り裂くすさまじい爆音が轟き、目にもとまらぬ速さで米軍戦闘機が飛んで行った。沖縄本島が基地の島であることを、否応なしに認識させられた一瞬であった。それにしても何という凄まじい爆音であろうか。精神をかき乱し、人を不安に突き落とす音である。車で少し走ると、すぐに米軍基地の金網に行きあたるのも悲しい現実である。そこここに咲いているデイゴの花の燃え上がる真紅の色が、目に胸に熱くつきささる。
 五月。宮古の同級生であり歌友でもある友人が、イジュの花を見に行こうと誘ってくれた。那覇から車で一時間余り北上した田舎道に、それはたくさん咲いていた。宮古では見かけなかったイジュの花。沖縄の歌人たちがよく歌に詠むその花を、是非みてみたいと長年思っていた。色鮮やかな花々が多い沖縄に、白く煙るように咲くイジュの花には、控え目で優しい趣がある。顔を近づけると、甘くいい香りがした。
 六月。沖縄の六月は慰霊の月。二、三の反戦と平和の集いに参加し、沖縄戦における集団自決の生き残りの方や、目の前で、親きょうだいを失った方々の話を聞いた。胸が痛み、言葉を失うような悲惨な話ばかりであった。二十三日の慰霊の日当日は、普天間基地をとり囲む人間の鎖につらなった。二十三万九千八百一人の名が刻まれた平和の礎にも足を運んだ。礎の端から端までゆっくりと巡りながら、こんなにも大勢の人が死んでいった沖縄戦とはいったい何だったのかと、考え込まずにはいられなかった。
 七月。気温は連日三十度以上。じりじりと焼けつく陽ざしがなつかしい。早朝からシャワーのように降りそそぐ蝉の鳴き声もなつかしい。イジュの花を見せてくれた友人が、今度はさがり花を見につれていってくれるという。夜にしか咲かないとのことで、夜九時すぎに読谷村喜納に行く。一軒の農家の広い敷地内に小川が流れ、その小川ぞいに二十数本のさがり花が、白やピンクの長い花房を垂らしていた。花の放つ強い芳香があたり一面を満たしている。農家の方の好意で、花の季節には足もとに電灯が点され、その薄あかりの中に、クワズイモの大きな葉が浮かび上がる。蚊の集中攻撃を受けながら、一時間余りを、幻想的な風景の中に立ちつくした。夜が深まるにつれ、さがり花ははじけるようにつぼみを開いていき、そのかすかな音がきこえるような気がした。
 八月。お盆の法事や他の用事もあり、約三カ月ぶりに仙台の家に戻った。昼間の気温だけみれば、沖縄よりも仙台の方が高いこともあるが、夜になっても気温が余り下がらない沖縄とちがって、仙台の朝夕はかなり涼しい。その上、水道の水の冷たいこと。まるで冷蔵庫から出した水のようだ。沖縄からやってきたあるおばあが、「ヤマトゥプリムヌたちは、水道の水も冷蔵庫で冷やしてから流しているのか」と、言ったとか。
 宮城県は八月四日になってようやく梅雨あけ宣言をした。その三日後は、はや立秋。お盆(八月十三日から三日間)の頃には、早くも秋風が吹き始めた。この三カ月間、住む人もなく、何の手入れもされなかった庭は、草木が思い思いに生い繁り、まるで小さな森のようだ。三年程前から毎年わが家の庭に巣を作っている山鳩とひよどりが、今年もどうやら巣作りに励んでいるようだ。忙しげに飛び交い、時折かしましく鳴き交わしている。庭の木に集まり、にぎやかに鳴いていた蝉は、日一日と勢いを失い、庭のあちこちに仰向けになって動かない蝉を目にするようになった。地上に出てからのほんの短い月日を、蝉は存分に鳴くことができたであろうか。濃いピンク色の花をつけた秋海棠の、大きくていびつなハート型の葉が、雨にぬれて光っている。季節はゆっくりと、しかし確実に、夏から秋へと移行している。
(宮古ペンクラブ会員・歌人)

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