ぺん遊ぺん楽


つれづれなるままに…

松原 清吉(まつばら せいきち)


<2005年07/23掲載>
 「つれづれなるままに…」で始まる「徒然草」は、その文体のなめらかさと、簡潔明快な表現で多くの人に親しまれてきた古典である。
 その第一段「いでや、この世に生まれては」の中に次の一節がある。

 人は、かたち・ありさまのすぐれたらんこそ、あらまほしかるべけれ。物うちいひたる、聞きにくからず、愛敬ありて、言葉おほからぬこそ、飽かず向はまほしけれ。めでたしと見る人の、心劣りせらるゝ本性みえんこそくちをしかるべけれ。しな・かたちこそ生まれつきたらめ、心はなどか、賢きより賢きにも移さば移らざらん。(以下略)。
 〈現代語訳〉人は、容姿がすぐれていることこそが望ましいことであろう。ちょっとした口のききかたが感じがよく、愛嬌があり、かといって口数の多くない人とは、いつまでも対座していたい。りっぱな人だと思っていた相手が、ふと幻滅させられるような本性を見せるのは、残念なものである。(三木紀人訳)

 徒然草は、鎌倉時代に書かれた随筆集である。筆者の兼好法師が出家する前の一三一〇年から三一年にかけて書かれたものであるとされるから、およそ七百年も前のことになるが、今読んでもずしりと心に響く。
 紹介した「いでや、この世に生まれては」などは現代でも立派に通用する見事な人間観であり、その慧眼には感服するばかりだ。
 序段の「つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書くつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」〈現代語訳〉所在なきにまかせて、終日、硯に向かって、心に浮かんでは消えてゆくとりとめのないことを、気ままに書きつけていると、ふしぎに物狂おしくなる。は、今も随筆の原点はここにあると言う人もいる。
 さて、先に行われた「第二回エッセー賞公募」には多くの人が応募し、関心の高さを見せた。応募した方やこの催しに賛意を表して下さった方々に改めて感謝したい。
 仙台にお住まいの岩澤さんからは「不思議なことに、応募作品を書いて以来、プロのライターではないし読んでくれる人がいるわけでもないのに、何か書き表したい気持ちが妙に高まっています」との便りがあった。嬉しい限りだ。
 物を書くということは、たとえ筆記用具が「ペン」から「ワープロ」に変わろうと、心を落着けて机に向かうことから始めなければならない。それが「つれづれなるまま」であろうとも、書こうとする姿勢に変わりはない。エッセーとは何かなどの定義づけにこだわっていてはペンが先に進まないこともあろう。だから私など「心にうつりゆくよしなしごと」を書きとめておこうとペンを取る。
 書くという表現活動は、「ことば」だけが表現の手段だ。声や表情、ゼスチュアなどの力を借りることも出来ないし、音楽などで味つけすることも不可能である。だから「ことば」を大事にしなければならないのに、それを自覚しない自分をいつも恥じている。そして、ことばを大事にするということはどういうことか、その原点を求めてさ迷っている。多くの人の書いた多くの本を読み、多くの人の多くの話に耳を傾けることを心がけたい。

 (宮古ペンクラブ会員・元学校長)

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