ぺん遊ぺん楽

 
下地島空港建設と「屋良覚書」

仲宗根 將二(なかそね まさじ)


<2005年05/14掲載>
 下地島空港への自衛隊誘致は、県内外の注目のもと、地元伊良部町はじめ宮古あげての反対で、伊良部町議会の全会一致の反対決議に発展、一応おさまった。誘致要請のため上京、通常ならとても面談できそうもない国権中枢の、防衛庁長官や政権与党幹部に直訴した議員をふくめての全会一致である。歴史的成果といっても過言ではなかろう。

 下地島空港問題は本土復帰前の1969(昭和44)年1月、話題にのぼった当初からキナ臭さがつきまとっていた。初報道の紙面は、「正体不明の飛行場」「伊良部村下地島に新設計画」「米軍・自衛隊用か」「秘密裏に調査進める」である。長短の違いこそあれ下地島の地図には4本の滑走路が示されている(『沖縄タイムス』1969・1・27)。米軍任命でなく、長期にわたる運動の末、前年勝ちとったばかりの初の公選主席をいただく「琉球政府」や、地元伊良部村(当時)にも伏せたままの調査であった。3回めの調査で初めて説明を受けた村議らから聞こえてきたのが、「飛行場は幅1000メートル、長さ5000メートルにおよぶ大規模な空港」である。

 翌1月28日付の紙面は、「日米琉諮問委の日本政府代表部筋からの情報」として、「下地島の土地調査は日本政府が将来のSST(超音速旅客機)時代に備えて、その乗員訓練場を建設する候補地のひとつとして行っている」「軍事目的ではない」と伝えている。しかしこのころ、在沖米軍基地からはB52爆撃機が連日のように出撃するベトナム戦争の真っ只中である。
 同年2月、日本航空の沖縄線就航15周年記念レセプションで来県した松尾同社社長は記者会見で、「運輸省が伊良部村下地島に民間航空のジェット・パイロット養成所を作る計画で検討中」「同島は起伏が少なく3500メートルから4000メートルの滑走路2本が十分取れる」(『宮古新報』1969・2・16)などと語っている。

 その後、次第に飛行場の規模・内容等が明らかになっていくなかで、滑走路は4000メートル級3本、ついで2本、1本、さらに3000メートル級1本(現行)へと変化していく。伊良部村・宮古全郡はもとより、立法院議会の与野党を巻き込み、さらには授業中の教師を連れ出しての脅迫・暴行、地元伊良部村では殺人事件まで起きるほどの激しい賛否対立を反映しての変化である。
 焦点は、経済効果、爆音等の公害、軍事利用への転用、用地買収費、下地島全島買上げ、漁業権等であったが、なかでも賛成派は「経済効果」を、反対派は「公害」と「軍事利用」を強調しての対立であった(『沖縄タイムス』1970・10・14)。経済効果では、建設総工費60億円の資本投下のほか、完成後はバー、飲食店、クリーニング店の開設、野菜や魚・肉類の供給、観光地としての利用等の波及効果もあげている。

 反対運動の中核であり、公選主席を生みだした主要母体の宮古原水協や復帰協を構成する各労組、民主団体等に対して、「琉球政府」副主席は、「それほど軍事利用が心配なら、滑走路に石ころを並べれば阻止できる」、主管局長は「ほとんど自動操縦なので、それほど事故・公害はない」などとさえ公言、糾弾されていた。

 再三にわたる誘致断念、誘致決定、規模縮小…の繰り返しのなかで、まがりなりにも総理府・運輸両大臣連署の、所謂「屋良覚書」は勝ちとられたのである。1971年8月13日付、屋良行政主席から運輸大臣宛「下地島パイロット訓練飛行場の建設促進について」の公文は、要旨「1、下地島飛行場は、琉球政府(復帰後は沖縄県)が所有し、管理する。使用方法は管理者が決定する。2、運輸省は、民間航空訓練及び民間航空以外の目的に使用させる意志はなく、また、そのことを管理者に命令する法令上の根拠を有しない」というもの。これに対して同月17日付両大臣連署の公文は「申し入れの2項目について、異存のないことを確認致します」という「政府見解」になっている。とは言うものの、今や独立国とは思えぬほどに米国べったりの政府のこと、有(戦)事立法・憲法九条改悪路線に沿って、いつ巻き返しをはかってくるか、楽観視するわけにはいくまい。

  (宮古ペンクラブ会員・宮古郷土史研究会長)

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