ぺん遊ぺん楽



桜のある風景

伊良部 喜代子


<2005年05/11掲載>
桜は不思議な木だ。花の咲く季節にのみ、圧倒的な注目を浴びて、あとは忘れ去られる。毎年春になると新聞、テレビは桜の開花予想を伝え、今日はどこそこの桜が開花しましたと、ニュースを流す。すると大方の人々は、散ってしまわぬうちに見に行かなければと、そわそわする。そして、家族や友人、職場の仲間などが連れだって、いそいそと桜の下に集い、花見の宴をひらく。すぐに散ってしまう桜をいとおしむためというより、万朶の花の下で、身近な人々と賑やかなひとときを過ごすために。

 4月上旬。昨年卒業した世田谷婦人大学の同期会に出席するため上京した。東京はちょうど桜が満開であった。桜の名所のひとつである上野公園は、大勢の花見客でごった返していた。咲き盛る桜の並木におし寄せる人の波。そして花見客が捨てていくごみの山。余りの騒々しさに、しんみりと花のはかない命を愛しむ気分など湧きようもなかった。そういえば何年か前に、かの有名な大阪造幣局の桜を見に行ったことがあったが、そこでは立ち止まってゆっくりと花を眺めることすらできなかった。1本1本の桜の木に味わい深い名前が付いているので、その名を手帳に書きとめようと思ったのだが、スピーカーから「後の人の邪魔になりますので、立ち止まらず速やかに前へお進み下さい」と、大音量のアナウンスがひっきりなしに流れているのであった。
 わが本拠地仙台の桜が満開となったのは4月下旬。仙台にも花見の名所はいくつかあるが、大勢の人であふれるそういう場所にはもう長いこと行っていない。私が花見に出かけるのは、元はうっそうとした雑木林であった近くの自然公園。小さな丘や谷間があり、沼もあってバードウオッチングもできる。20年程前に植えられた桜の苗木が成長して、みごとな花を咲かせるようになったが、余り知られていないため、近隣の人しかやって来ない。ゴミは各自が必ず持ち帰るので、散乱することもなく、実に快適な花見ができる。天気のいい日の花見ももちろんいいが、私が最も好きなのは小雨の日の花見である。雨の日に桜を見にくる人などほとんどいないから、公園中の桜をひとりじめできる。傘をさしてゆっくりと公園を巡りながら、雨に濡れて微睡んでいるかのような桜を心ゆくまで眺める。雨の中の桜は、ふだんとは違う表情をみせてくれる。

 4月末日。山形市内に住む娘の家まで、車窓に広がる風景に心奪われながら、1時間余りのドライブをした。高い山々は残雪で白く輝き、低い山々は柔らかな新緑におおわれている。木の種類によって微妙に色合いの違う新緑に常緑樹の濃みどりと山桜のうす桃色、八重桜の濃いピンクなどがまじり、4月末から5月にかけての東北の山々は、溜息がでる程美しい。宮城県と山形県の境にある笹谷トンネルをぬけ、山形県側に入ると、桜に混じってサクランボの花、白いリンゴの花、スモモの花などが咲き揃い、さながら花の競演であった。
 ゴールデンウイーク後半に、亡き義父母の法事のため、北海道千歳空港に降り立った。北海道はまだ早春といった感じで、白樺は1センチ程の新芽をつけているが、からまつ林はまだ冬枯れの赤ちゃけた姿のままであった。早春に咲くエゾオオムラサキツツジの紫の花が、冷たさの残る風に揺れている。桜はと見ると、札幌で、開花宣言したとはいうものの、ほとんどがまだ蕾のままで、満開になるにはあと1、2週間かかるとのことだった。
 それにしても1月には桜が咲く沖縄から、5月の連休が過ぎてようやく咲く北海道まで、日本列島はほんとに広い。ところで、ヤマトゥの人々が桜をこよなく愛するのは、花の美しさもさることながら、散る姿がいさぎよく美しいからだそうである。
 20数年前、長野県松本市に住んでいた時、伊那盆地北部の高遠城址公園に桜を見に行ったことがあった。そこはなだらかな山全体が夥しい数の桜でうめつくされていて、折からの強い風に滝のごとく花びらが吹き散っていた。踝のあたりまで降り積もった花びらが風にあおられて舞い上がるので、まるで天と地の両方から、花びらが湧き出てくるかのようだった。降りしきる花びらに全身をつつまれていると、自分の体が時空を越えて、どこか遠い世界に運ばれていくような気がしたのであった。

 身をもめどとどかぬ願いあるなればしみじみと桜咲き揃いゆけ
                                       馬場あき子

 花に酔ひ花に疲るる人むれに容赦なくふぶく夜の緋ざくら
                                   平良好児

 亡き人に逢えるかも知れぬ突風が桜いっせいに吹き散らすとき
                                 伊良部喜代子

(宮古ペンクラブ会員・歌人)

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