ぺん遊ぺん楽


イーヌ、ブー


砂辺 達男(すなべ たつお)


<2005年04/27掲載>
 聞き慣れない言葉かもしれないが、池間に生まれたものにとってこの言葉は耳をくすぐるような懐かしい響きを持つ。池間の原風景を想起させずにはおかないからである。
 池間は昔、2つに割れていた。島の中央を南北に海が走っていた。幾世紀もの年月を経て、波と風と砂のメカニズムの堆積作用によって北側の入り口が塞がれ、中に入り江が形成され遠浅の干潟となった。干潟といっても満潮時には水深は2メートル以上あった。そこが「北の入り江」即ちイー(北)ヌ(の)ブー(入江)である。東側は畑地があり、西側には集落と港、舟揚げ場が数カ所に点在した。集落から東の畑へ行くには陸地伝いに遠回りするか、干潮時を見計らって近道を往来するしかなかった。
 そこで、交通の不便の解消と土地の造成を図るべく、島の有志が鳩首(きゅうしゅ)会談した結果、大正9年、池前干拓水利事業組合を立ち上げ干拓事業にのりだした。大正13年着工し、昭和9年に事業はほぼ完了した。その面積は約47ヘクタールに及んだ。水門を設置した防潮護岸を2本造り道路をかねた。
 その結果、約20ヘクタール程の干拓地が造成された。そこが「ユニムイ原」と呼ばれた。学校が昭和13年には集落内から新築移転された際、このユニムイ原の一角が運動場となった。内海は汽水帯(きすいたい)となり、藻場が形成され魚類の格好の産卵場所となった。魚類、エビ類、蟹類が繁殖し、それらを狙う鳥類の格好の住み場所となった。
 元々ここは豊饒な漁場でもあったが環境の変化とともに適した魚介類が住み着くようになった。
 登下校は防潮護岸の道路を通った。朝、登校の時間帯には朝日にきらめく水面に魚が群れて飛び跳ねていた。下校のとき手作りの釣り竿で小魚を釣って夕食のおかずにもした。季節が変わるたびに渡り鳥や野鳥も変わり、多くの群れが飛来した。今の比ではない。月の夜、銀色のさざ波に魚影が群れた。暗い夜、灯台の明かりがさっと水面を掃いていくにつれてあちらこちらで魚影が飛沫(ひまつ)を上げた。干拓事業によってイーヌブーは魚たちと、蟹やエビ、鳥たちと人間たちが共生できる絶好の環境も造り上げた。
 もちろん小さな池間島には山も川もない。学校からの遅い帰りは西の空にかかった夕月を仰ぎながら友等と心のどこかで川や山を連想し、「故郷」や「おぼろ月夜」を歌いながら帰ったことを鮮明に思い出す。
 昭和38年漁港工事が着工し、同57年完了したが、その際の浚渫(しゅんせつ)土砂によってイーヌブーは外海との水路が遮断され環境が一変した。
 今では、魚たちも蟹エビたちも死滅した。淡水生の草が繁茂し、水域が殆どなくなり、渡り鳥や野鳥も極端に減った。そこはもう昔のように鳥たちや魚たちや蟹、エビたちと人々との共生の場所ではなくなった。「こんなイーヌブーに誰がした」と愚痴の一つも言いたくなる。

   (宮古ペンクラブ会員)

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