ぺん遊ぺん楽



この子たちはもう還暦

渡久山 春英(とくやま・しゅんえい)


<2005年03/26掲載>

 先日、昭和21年生まれの男性から来年(平成18年)還暦を迎える旨の電話を受けた。日頃気に掛けていなかったので、少し戸惑いを感じたが、電話で話しながら44年前の思い出が走馬灯のように、脳裏を駆け巡った。

 そういえば終戦の翌年の生まれだから、「団塊」の最初の世代の皆さんであるわけだ。もっとも苦しい時代に幼少を生き抜いた勇者たちである。雨が降ると学校は「増産休業」をして、子供たちも家事の手伝いをした。中学生にもなれば一人前に畑仕事もやってのけた。手や足はいつも傷だらけであった。これは、この子たちの勲章であり、誇りにさえしていた。3度の主食はいもだった。白いご飯を食べることもなく育った皆さんである。昭和36年の多良間中学校3年生57名の皆さんの話である。

 話を水納島に変えよう。昭和35年4月に水納分校に新採用教員として赴任した。小学生16人、中学生8人だった。教員は小・中とも2人ずつだった。「複々式学級」といって3学年を1つの教室で授業した。私は、中学校で5教科を担当した。各学年15分の授業だった。教師は50分授業しているのに生徒は15分と自学自習だった。

 教材といえば教科書のみであった。子供たちの向学心は旺盛だから何でも教えてあげたいと張りきっていた。4月早々動物園の話をすると、矢継ぎ早に「カバ」について質問があった。ぜひ黒板に絵を描いて見せろということであった。質問に答えるのが教師の使命である。黒板に大きく描くことにした。カバの特徴が出ているかわからないが、生徒は静かになりゆきを見ていたようだ。短足も描き瞳(ひとみ)も見事に(?)かきいれて、画竜点睛(がりょうてんせい)と思いきや、生徒の1人から「先生に似ている」と言われた。23歳の教師はギャフンでした。しかし、なんと純真な子供たちだろう。思うことを実直に話せる雰囲気を好きになった。これから教師を続けるには離島僻(へき)地にしようと決意させた水納島であった。この分校の3年生の2人は今年が還暦である。初赴任の思い出多い分校は廃校になっている。

 水納分校も多良間中学校も私にとっては教師という仕事の未知の世界への出発点であった。だからあの頃の生徒たちが還暦を迎える年齢になったことは感慨深いものがある。それは先輩・後輩という関係がもたらす因縁かもしれない。なにを教えたか覚えていないが、思い出話として聞かされることがある。それは、琵琶湖を見てあまりの大きさに「日本海」といったこと、汽車でトンネルを通ったとき窓を閉めないで顔が黒くなったこと、キリンを見て大きな山羊といったこと、カバを見て大きな豚といったことなどである。田舎者の先生で申し訳なかったと自責の念にかられているこの頃である。老婆心ながらこの子たちに人生訓として「美酒」をすすめたい。

  (宮古ペンクラブ会員・元学校長)

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