ぺん遊ぺん楽


神 の 言 葉

久貝 徳三(くがい とくぞう)


<2005年03/05掲載>
 最近気になる言葉を2つ聞いた。1つはイラク戦争について語った、聖職者の言葉。
「民主主義は人の作った法であり、その上には神の法というものがあるのだ」
 イラク国民にとっては、アメリカの押しつける民主主義よりも、イスラム教えが良いということである。

 現代社会では「民主主義」を基本とした法が、最も理想的だと思われている。しかし、それは、積み重ねてきた歴史から学びとって、人間が英知をしぼって作りあげた法・制度である。これに対して、聖職者は、全知全能の神の教えこそが、この世で最高の「法」だと言うのである。

 しかし、悲しいことにその全能の神は、人間界にお出ましになって、聖なる教えを解いてはくれない。問題は、「聖なる神の法」を、誰がどのように解釈して、人間に伝えるかである。説き聞かせる人によって、神の教えが異なるため、全能でない人間は迷ってしまい、ついには信じなくなるのである。同じ宗教内でも、神の教えを伝えた人によって、宗派が生じていることがその証である。

 何れにしても、神は絶対に間違った法は制定しないと思う。その行き着く所は人間社会に幸せをもたらす平和であるはずである。
しかし、この平和と言う言葉の実態が、摩訶不思議なもので、平和のために命をかける戦争もあるのだ。

 もう1つは、ローマ法王の病気について語った側近の言葉。
 『法王の病気には、薬よりも祈りが効く』
インフルエンザにかかった法王の、1日も早い快復を願っての言葉である。その時、法王は医師の加療を求めて入院していた。この言葉に従えば、法王は病院よりも教会に行かれた方が良かったのではないか、と、思うのだが。

 凡人にもよくあることで、「今はの際には神に祈る」。幸いにして治れば「神様のおかげ」。治らなければ、「信心不足」。いずれにしても神様が悪くいわれることはない。神様とは利用価値のある存在であり、諸刃の剣なのである。
 神は全能なるが故に、時としては人の心をもてあそぶ。誰がどのように教えてもよい。ただ1つ神様の力によって実現してもらいたいことは、地球上全人類の恒久平和である。

 しかしながら、神の言葉が、人間の心の中に潜む『欲』のふるいを通して、伝えられている間は、人間社会に真の恒久平和を期待するのは無理のようだ。それは、神様がこの世に現れて、神様の教えを直接話してくれるか、人間の心の中から欲がなくなった、後のことになるかも知れない。

 ところが、人間の知恵や科学文化は、人間に「欲」があるために、向上充実してきたとも否定するわけにはいかない。

   (宮古ペンクラブ会員・団体役員)

top.gif (811 バイト)