ぺん遊ぺん楽

 
2005年元旦「辺戸(へど)岬」で迎える

仲宗根 將二(なかそね まさじ)


<2005年02/05掲載>

 2005年の元旦は、沖縄本島最北端の辺戸(へど)岬で迎えた。1972年5月15日、沖縄県が本土復帰して以来、機会があれば一度はぜひ行ってみたいと考えていたのが、ようやく33年ぶりに実現した。

 あいにく氷雨とでもいえそうな、横なぐりの冷たく激しい風雨のため、立っているのもやっとという有りさま。好天の日はよく見えるという、鹿児島県の最南端・奄美諸島の与論島(よろんじま)も、時折り太陽が顔をのぞかすていどでは遠望するというわけにもいかない。それでもかつて1960年代、米国の全面占領下の壮大な祖国復帰運動の一環として、北緯27度線上の海上集会の沖縄側の出発地点に初めて立った感動は、筆舌に尽くし難いと思ったものである。

 1950年前後の運動を再編して、新たに沖縄県祖国復帰協議会(略称「復帰協」)が結成されたのは1960年4月28日。本土は「60年安保」の真只中。太平洋戦争日米最後の激戦「沖縄戦」にひきつづいて、米軍の沖縄占領を県民の関知しないところで合法化したのは、1951年9月8日サンフランシスコで締結、翌52年4月28日発効した対日講和条約第3条である。復帰協は「4・28」を屈辱の日とし、第3条を打破して本土に復帰すべく度び重なる県民総決起大会はじめ、県内各地で「網の目行進」など多様な活動に取りくんだ。これに呼応して、全国各地で安保をたたかうなか、「沖縄を返せ」も高揚し、63年4月28日、日本を南北に分断した北緯27度線上で初の海上集会へ発展、以後毎年開かれていたが、そのつど代表を送り出す側であった。

 復帰4年後の1976年4月、辺戸岬には復帰協によって「祖国復帰闘争碑」が建立された。27年におよぶ米軍の全面占領支配を打ち破った県民運動を確認し、人類の恒久平和を願っての建立である。碑文は、風雨にさらされて判読し難いところもあるが、全文およそつぎの通りである。

 「祖国復帰闘争碑」(碑文)
 全国のそして全世界の友人へ贈る。
 吹き渡る風の音に耳を傾けよ 権力に抗し 復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ。打ち寄せる波涛(はとう)の響きを聞け、戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫(おたけ)びだ。

 鉄の暴風やみ平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き 1952年4月28日サンフランシスコ「平和」条約第3条により屈辱的な米国支配の鉄鎖(てっさ)に繋がれた。米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙(じゅうりん)した。

 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた。われわれの闘いは蟷螂(とうろう)の斧(おの)に擬された。しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ 全国民に呼びかけ全世界の人々に訴えた。

 見よ 平和にたたずまう宜名真の里から27度線を断つ小船は船出し 舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。
 今踏まえている土こそ 辺戸区民の真心によって成る 沖天(ちゅうてん)の大焚火の大地なのだ。

 1972年5月15日 沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。しかるが故に この碑は 喜びを表現するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。

 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確め合い 決意を新たにし合うためにこそあり。人類が永遠に生存し 生きとし生けるものが 自然の摂理の下に 生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある。

 辺戸岬は観光地としても知られているようである。「祖国復帰闘争碑」の前で30人ばかりの集団に行き合った。衿を立て、口々に「寒い」を連発していた。「どちらからですか」と問うと、「三重県です」との答え。復帰記念資料室で備えつけのノートに、署名する人もいたので、後につづいて復帰運動の教訓を「憲法九条を守る運動へ」と記し、別れた。2日の朝方、「大きな虹が2つ出ているよ!」同行の小学生の孫の叫び声。幸先よい2005年の出発である。

  (宮古ペンクラブ会員・宮古郷土史研究会長)
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