ぺん遊ぺん楽



味噌(ンツ)人生はンナマカラドゥ

相田 恵美子
(あいだ えみこ)


<2005年02/02掲載>
 「あんたは、いくつになったか?」
 「43だよ」
 「じゃもう43年になるんだねー」

 三女である私が生まれた年から母は味噌づくりを始めた。現金収入が少なかった昔のこと、家計の足しにと味噌販売を思いついたという。少しずつ口コミで評判を呼び、数年で市場や旅館、個人の固定客もつくようになった。そうなると、かなりの量の味噌をつくることになる。家族総動員で1日かけての作業となった。

 子供たちに分担されたのは、煮た大豆をミンチする機械に入れること。煮たての大豆に砂糖をまぶしてのおやつは、ひそかな楽しみでもあった。大量にミンチ化された大豆を大鍋に入れ、麦こうじと塩を加えて勢いよくまぜてこねる。リズミカルに動く母のたくましく太い腕はたのもしかった。全工程が手作業であり、時間、労力ともに手間がかかる。父も手伝ってはいたが、ほとんどが母の手1つに委ねられていた。

 私は味噌づくりの手伝いがあまり好きではなかった。なにかしら、それは自分の家の貧しさを象徴しているかのように思えたからだ。あまり積極的に手伝わない子供たちのことを察してか、これまで手動だった大豆ミンチ機を電動に変えた。私が中2の頃だ。

 その直後、電動機の操作を誤り、母は左手の指3本を第一関節から切断するという大ケガを負ってしまった。自分の「なまけ心」が母のケガにつながったのかと思うと同時に、『なんで、家は味噌つくらんとならんの』という貧しさに対しての悲しさがあり、そんな自分の気持ちが情けなくて、今でも母の手を見ると時折その時の感情が思い出され申し訳なくなる。しかし、ケガの後も、精力的に味噌づくりを続けた。「おいしい、といって買ってくれる人が待っているから」と、商売もあったが、半ば生きがいにもなっていたのだろう。日頃はウーカタなのに、味噌の時だけは決して手をぬかず、自分なりのこだわりを貫いていた。

 私が初めて上京する日も『今日は久しぶりに天気が良いから麦を干すからあんたはがんばって行っておいでねー』と空港まで見送りにこなかった。上京した後、仕事や結婚などで、居を移り変わっても、母の味噌は届けられた。私だけでなく姉妹全員の家には、母ちゃんの味噌がある。子を育て、孫も育て、ひ孫まで育てているのである。

 そんな母が、昨年、突然に光を失ってしまった、あまりの急な事に本人はもちろん周りも戸惑った。医者に告げられたように、日常生活が困難になるには、そう時間はかからなかった。「ンゾーナムヌ」(情けない)をくり返す母になぐさめる言葉もみつからない。

 地元を離れたことのない母を「井の中の蛙」と、よく反抗した学生の頃、後で父親を早くに亡くし、末っ子だった母は、姉たちが嫁いだ後、老いた母親と知的に障害を持った姉をおいて出ていくことはできなかった事情を知った。

 宮古には長女と五女が実家の近所に住み母の日常の生活を支えている。遠くにいて心配することしかできない私は「近くにいるだけで親孝行だね」と、姉や妹に感謝している。

 自分のことよりも親や姉のことを考えて選択した母の人生、好き勝手に生きている私が実は本当の「井の中の蛙」だと思い知らされた。

 福祉の仕事に就きたいと思ったのも、地域で障害者にかかわる活動が自然にできるのも親の後ろ姿を見て教わったからだと実感している。最近は、妹のすすめもあってデイケアに通うようになったという。失意な日々をすごしていた頃から考えると、少し現実を受け入れられたのかなぁと思う。

 『えみこー、あんた いくつになったか』
 「43だってばー」
 『エゲェー、もう43年もつくってきたからもう、いいかねー』

 まだ、まださぁ、かあちゃん、ンナマカラサイ。

    (宮古ペンクラブ会員・主婦)

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