ぺん遊ぺん楽


えんどうの花

石垣 義夫(いしがき・よしお)


<2005年01/12掲載>
 えんどうの花の 咲く頃は
 幼い時を 思いだす
 家の軒端に 巣をつくって
 暮れ方かえった あのつばめ

 金城栄治作詞、宮良長包作曲「えんどうの花」との出会いは高校時代。
 翔南高校の前身、宮古水産高校の当時は、門の正面に職員室があった。その通路右に養殖池、左側にコンセット造りの、ふたつの教室があった。
 このコンセット校舎が、音楽教室だった。音楽の先生は、故仲元銀太郎先生だった。
 「君たちに、音楽を教えても、しょうがないですよね」と、まともな音楽の授業をせず、多分、自分が好きだっただろう宮良長包の歌をピアノに合わせて歌わせた。

 去年(平成16年)10月31日、宮良長包の弟の孫になるとの声楽家・宮良多鶴子さんのコンサートが平良市の響和楽器で行われた。
 100人ほど収容できる立派なホールに集まったのは50人足らず。一流の声楽家の生の声を、それだけの人数で、じかに聴くのは、贅沢そのものだった。
 そのコンサートで宮良多鶴子さんは「『えんどうの花』は、宮古で生まれたともされていたが、そうでなく沖縄本島北部、塩屋に赴任してからだったとのことで、塩屋に『えんどうの花』の歌碑が建てられた」との話をした。

 昨年11月17日の沖縄タイムス「茶のみ話」欄で前里邦子さん(66)が「えんどうの花の歌碑」を書いている。
 前里さんによると、作詞をした金城栄治は大正10年4月から大正13年3月まで、宮古の新里尋常高等小学校で教鞭を取り、のちに宮古教員養成所で教えたとしている。
 そして「エンドウは、そのころ、新里(上野村)に珍しい豆として作付けされ、年の暮れ先生は転勤された」とも書いている。
 「えんどうの花」は、宮古で生まれなかったかも知れないが、前里さんも「宮古島を去るに当たり、先生は貧しい農村の子供たちを励ましつつ、遠く離れた塩屋から心を寄せられたのではないでしょうか」とも書いており、宮古の心象風景から生まれたものかも知れないと思わせる。

 故仲元銀太郎先生を介し「えんどうの花」に出会った頃は何の感動もなかった歌だったが、宮良長包の足跡、音楽のすばらしさを知るようになって「えんどうの花」は、私の愛唱歌のひとつとして蘇(よみがえ)った。

 世界的な音楽家・宮良多鶴子によって数々の宮良音楽に触れることができ、久しぶりに青春の血が騒ぐほどの感動を覚えた。

 コンサートの帰り「えんどうの花」を口ずさみ、社会人となって親しく付き合うようになっていた仲元銀太郎先生に思いを寄せながら心地よい思い出にひたった。

 (宮古ペンクラブ会員・平良市史編さん委員)
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