ぺん遊ぺん楽



夢や愛を売ってはならない

下地 康嗣
(しもじ やすし)


<2004年12/01掲載>
  教員になりたての頃だから、今から40数年前も前のことになるが、宮古水産の生徒たちが木下順二の「夕鶴」を演ずることになった。演出はM先生が担当され、何故か私が演出助手をつとめることになった。小道具係りのようなものだが、理科系で演劇とは無縁の新米教員の好奇心はいやがうえにも高まった。「つう」役の女生徒は当たり役で美しく、「与ひょう」や「運ず」「惣ど」役の男生徒らも好演で、父母や一般の方々の好評を得た。この昔話「鶴の恩返し・鶴女房」が原型の民話劇に今なお強く引かれるものがある。

 悲しくも素朴で美しく、詩的に昇華された物語のイメージを壊すことになるだろうと思いながらこの文を綴っている。機織の姿を見てはならないとの、つうとの約束を破った与ひょうには離別が待っている。それよりも与ひょうの愚かさは、運ずや惣どにそそのかされ、お金のため千羽織り(蜀江錦(しょっこうにしき))をもっと織れと、つうを女房の座から織り子に変えたことである。千羽織りは自分を救ってくれ、愛してくれる与ひょうへの恩返しであり愛の証であった。それを売ることは2人の夢や幸せを売ることである。今の世の中、お金がなければ生きてはいけないが、お金は手段であって、目的ではないことをもこの物語は教えている。

 「われわれを自分自身に対して目覚めさせるような何らかの不安、何らかの情念、なんらかの苦しみがなくては、幸福というものは生まれてこない」とのフランスの小説家アランの言葉を借りて、エッセー「満身創痍の幸福論」を作家佐藤愛子氏が書いている。与ひょうにとって、つうとの別れの悲しみやお金が決して幸せをもたらすものでないことを知った、その後の人生のほうが、幸福感や人生観への悟りの中で深みのある人生をおくったのではあるまいかとも思ったりする。

 鶴女房だから2人の間に子は生まれないだろうが、あるいは何らかの拍子で、つうが鶴に戻れなくなり、それを境に子ができて、そうなれば2人はきっと離別せずにすんだのではないのだろうかと脈絡のない空想を描いたりする。

 最近の社会風潮は結婚も離婚も極めてたやすく、また子への配慮もなく別れてしまう。お互いに不倫など欺瞞(ぎまん)の生活を送ることに何の抵抗も感じないドラマ的人種が増加の傾向にあるとか、少女らが援助交際を何の苦痛もなく自発的な行為としてできる精神のひずみはどこから来たものであろうか。

 「人は彼の祖先に似るよりも彼の時代に似ている」との諺があるが、幸福感や人生観も「その時代に似る」となれば、浅い自己中心主義が横行し、真の意味の愛情や他から愛されることの意味がわからなくなり、虚栄のむなしい時代を生きていくことになるのではあるまいか。

 幸福論を言葉に出したり、述べたりすることは、己はどうであろうかと躊躇し、まさに照れくささと勇気のいることであるが、人は働き得て、能力に応じて社会のために尽くし、宮澤賢治ではないが、日々の生活に足る糧を得て、心温まる家族を持つことこそが、幸せの原点であろうと思う。そういった価値観はいまだ日本の社会の求めるところと思うが、時代外れのことであろうか。

  (宮古ペンクラブ会員・元校長)

top.gif (811 バイト)