ぺん遊ぺん楽


通 知 表

仲地 清成
(なかち・きよしげ)


<2004年11/26掲載>
 こどもの頃の通知表を母が大切にとっておいてくれたので、今も手もとにある。

 小学1年の担任は下地竹先生であった。もらった通知表には学業成績だけでなく、性格や授業時の様子、家庭環境などが書かれている。「指名サレル時ハ整然タル答ヲナスモ温順、無口ナルタメ平素ハ才能表ハレズ」、「骨太ニシテ胸幅広ク頑健ナリ」、「父ハ死亡、母ノ手一ツニテ育テラル。母ハ至ッテ勤勉、子供モソレヲ見習ウカマジメナリ」。

 2年生の途中台湾に疎開したが、記憶に残るその頃のことと1年生の通知表に記載されていることを合わせて思いを巡らすと、こどもの頃の自分の姿が見えてきて愉快になる。疎開へは、何そうかのポンポン船が連なって出発した。途中、警戒警報がかかったのだろう、船は島影に隠れて並んで停泊した。僕はとなりの船に移って遊んでいた。ところが、気がつくと船が動き出していた。僕は離れていく自分の船にジャンプして飛び移った。たぶん危機一髪であった。基隆(キールン)に着くと疎開者は倉庫のような場所に収容された。僕は早速街に出て歩きまわった。心配して待つ家族の前に現れたときには、手にお菓子をいっぱい持っていた。ということもあって、「これは子供の頃からガキ(食いしんぼう)だった」と母はよく言ったものである。

 思慮に欠けていて向こう見ずだったのか、無神経だったのか、しかし、少なくとも臆病ではなかったと思うことにしている。

 台湾にいた2、3年生の時の通知表は残っていない。実はそのどちらかは小さくちぎってぱらぱらと川に流したことを覚えている。みじめな気持ちだっただろうが、そう快な気持ちだったような気にもなる。おそらく慣れない場所で不適応におちいり、成績も惨たんたるものであったに違いない。

 前に、数名の仲間と伊豆の旅に出た。川端康成の『伊豆の踊子』の旅芸人たちの歩いた道を歩き、隣に踊子がいそうな宿に泊まった。そのとき旅の案内をしてくれたのは静岡県出身の元久米島高等学校長の山本先生だった。竹先生の婿殿である。そんな縁もあって、竹先生と電話で話し合う機会に恵まれた。なつかしいお声だった。

 ところで、先生は私の通知表の「体操」の欄に書かれている「鈍重ナルモ勇猛ナリ」。あれから半世紀を優にこえている。その間、自分自身、もちろん変わったところもあると思うが、変わらない部分の多さにも驚かされる。何よりも、1人びとりの教え子をよく観察、的確に表現、記録に残されたことに象徴される先生の教育愛に深い感銘を覚える。

 ともあれ、あったとされる「勇猛さ」は影をひそめてしまったが、「鈍重さ」だけは今もきちんと残っている。

  (宮古ペンクラブ会員)
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