ぺん遊ぺん楽



スダリる秋に梅さんと

相田 恵美子
(あいだ えみこ)


<2004年11/10掲載>
  朝晩、冷えてきた。と同時に木の葉も色づき始めてきた。今年はゆずのあたり年だそうで、山や野でも、淡い黄色のゆずが、それこそ「スダリ」ている。
 我が家も、たくさんのゆずのおすそ分けをいただいた。焼酎に入れるもよし、皮ごと千切りにしてハチミツ漬けにするもよし、と幅広く使える、秋の恵みのひとつである。

 「障害児を持つ親の会」でも、ゆずジャムを作って店頭に並べたことがある。やはり豊作のときだった。色鮮やかで、けっこう売れたものだ。
 この「障害児を持つ親の会」は、正式には「障害児を持つ親とその仲間たちの会」という。私は「仲間たち」の類に入る。以前、都心からはなれたこの町では、障害を持った子は、就学時になると遠くの養護学校へ通うか、引越しをするか、いずれにしても、町の同世代の子どもたちと交わる機会を失わざるを得ない状況にあった。

 息子の同級生に、ダウン症の女の子がいる。ご両親は、都や町に懸命にはたらきかけ、町の小学校に「心障学級」がつくられた。今から10年ほど前のことである。同時進行で、「親」だけの「会」もできた。そうした意味では、まさに草分け的な存在の親たちではあったが、いつもたんたんとしていて気負うことなく、それでいながら前向きな姿勢に、私は好感を持っていた。その魅力につい惚れてしまい、「仲間に入れて」と自分から申し出た。その後、私のような「仲間たち」が増えてきたのだ。「いーれて」「いーよ」とお軽い感じだが、活動や目的などは「親」であろうがなかろうが、全く一緒である。生まれ育った土地で、教育を受けられ、将来も住みつづけていける…。とても当たり前のことだ。

 しかし、若い頃、福祉施設の職員として働いていた私は、障害がある、ということだけで、家族と住めない、地域で生活できないのは、何故だろうと、仕事をしながらも疑問をいだき続けていた。たしかに、療育や治療、介護のこと等を考えると、物理的には家族の負担は大きいかもしれない。しかし、社会的な支援があれば、それも可能になるのではないかと思っていた。「人として当たり前のこと」の原点に立つと、今の私たちの会の活動は、ほんとうに微々たる歩みかもしれないが、確実に歩を進めていると思う。

 昨年、借家だが工房を持ち、保健所の許可をとり、オリジナルの商品を作り出すことができるようになった。ひとつづつ形になっていくのが皆の励みとなり、次のステップへと踏み出していけるのだと思う。

 さて、自称ギャルの女性だけだったこの会に、うれしくも(?)男性が仲間入りしたのは、一昨年前のこと。それが梅さんである。
 梅さんは、知的障害を持つ息子さんと、奥さんの3人家族。他市に住んでいたが、4年ほど前に、故郷であるこの地に戻ってきた。息子さんは、小・中学校とも、普通学級に通学したという。軽い肢体不自由も併せ持つ息子さんを、梅さんは奥さんと2人で大切に育ててきた。「今でさえ偏見や誤解もあるから、当時はもっとたいへんだったんじゃないの?」と聞くと、「そりゅあー、いじめもあったよ。子どもじゃないよ、大人のだよ」と言い切った。理解のない教育関係者や、他の保護者たちの心無い言動に、つらい思いをしてきたというのだ。
 「子どもが、皆と一緒がいいっていうから」と、普通学級へ通わせ続けたという。

 その後、奥さんが難病を患い、梅さんは家事、息子さんの世話と奥さんの介護にと、多忙な日を送っている。それでも、会の例会やイベントには必ず顔を出し、力仕事や、畑仕事のノウハウを一手に引き受けてくれている、たのもしい存在である。多くを語る人ではないが、会の主旨に一番、賛同してくれているのは梅さんだろう。
 「ここは、いいよー。畑にすわって眺める山の風景も、鳥のさえずりも、1日として同じものはない。毎日、変わっていくから、あきないよなあ」と、細い目をもっと細めて笑う。故郷の地にどうしても帰りたかったという、梅さんの気持ちが伝わってくる言葉でもある。

 今回、紙面に書かせてもらうことで、梅さんに相談した。「いいよー、そのままを書いて」と、あっけないほどアッケラカンと言った。その余裕は、60数年、前向きに歩いてきた自信なのだ。梅さんの人生は、スダリているのだなあ、と思った。

    (宮古ペンクラブ会員・主婦)

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