ぺん遊ぺん楽



「偶然の連鎖」がなかったら・・・

友利 吉博(ともり よしひろ)


<2004年11/06掲載>
  終戦間もない台湾。『敗戦国民』となった日本人と現地人とのいさかいは日毎に激しさを増し、日本人は生死にかかわりかねない危機的状況に置かれているとの噂まで広がった。戦時中、いわれもなく下位なる民として差別されていたという台湾現地人の積年の恨みがついに爆発。目前の日本人に向けられているとのことだった。沖縄から移住してきた疎開の児童生徒も本土出身の生徒たちから「琉球人琉球人!」と侮られていた苦々しい経験があり、それゆえ誇りある 『戦勝国民』となった台湾住民の怒りには微妙に共通する心情を抱いていた。

 小学3年時に一家そろって帰国。そして時は流れて高校時代。学校見学で鑑賞した映画「ひめゆりの塔」の主演女優香川京子さんのもんぺ姿に私はかつて疎開地台湾板橋の「海山国民学校」で私たちの学級を受け持っていた担任の先生をダブらせていた。先生は若くて笑顔が優しくて疎開の児童生徒には何かと目をかけたり時には自宅に招いて母上手づくりの料理や珍しいお菓子なども恵んでくれたりした。後年私は無性に先生の消息が知りたくなった。しかし沖縄は当時パスポートで本土と遠く隔離されていて手掛かりは八方ふさがりだった。

 時はさらに流れて昭和42年(1967年)の7月。宮古高校「本土修学旅行団」は日程の最終日鹿児島から乗船して沖縄へ向かうはずだった。ところが台風接近で船は欠航。急変した事態に動転した旅行社の添乗員は私たちをバスに預けたまま予定外となった宿泊ホテル探しに東奔西走した。ようやくややはずれの某ホテルに到着。団長の私はただちに緊急事態発生と学校に報告した。

 …入浴をすませた私と高田先生は夕食前のビールを飲み交わしながら同じ引率の片岡先生の着席を待っていた。やがて現れた片岡先生は開口一番「大浴場で台湾女子師範の同窓会員らしい皆さんと一緒になった」と言った。ピンときた私は瞬時にフロントに電話「会の幹事につないで下さい」と要請、幹事の声を耳にすると早る心を抑え抑え「台湾板橋の 『海山国民学校』に勤めていた方はいませんか」と聞いた。「2人いますよ」の返事に私の心は舞い上がった。

 数分後私はフロントロビーのソファーでその2人の方と対面していた。全身緊張しながらこれまでの経過を説明すると「ああ疎開の子ね、私たちも受け持っていましたよ」と応じた。しかしご両人ともイメージは重ならなかった。「…記憶では先生は板橋駅最寄りの踏切を渡って台北に通じる大通りのこの辺の一軒家にお母さんと住んでいました」と描いてきた地図を示すとご両人は声をそろえ「ああそれ梶塚先生ですよ!」と明快に答えた。「だけどね、都合悪くて梶塚さん今回は参加してないんですよ」と残念がり、持参した名簿から姓名住所を抜き書きすると私に手渡しながら「…先生結婚なさって今はこの 『島田』姓ですよ」と告げた。そして会に参加できなかった先生を痛く惜しんだ。教師と生徒だったそれぞれの立場から戦時下の板橋や海山国民学校に対する思いの数々を熱く語り合い最大のみやげを胸に私は部屋に戻った。

 翌日、修学旅行団は事もなく沖縄への帰途についた。帰宅すると私は一気に相当枚数の手紙をしたため差し出した。数日後「驚きました。目頭が熱くなり夢ではないかと思いました…」の流れるような美しい文字の手紙。島田初恵先生の手紙を私は受け取った。便せん 9枚ともご厚情に満ちていた。台風―船の欠航―ホテル替え―片岡先生と大浴場、この『偶然の連鎖』がなかったら先生の消息は永遠に不明であった。

  (宮古ペンクラブ会員・平良市文化協会副会長)

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