ぺん遊ぺん楽


犬は好きですか?

ある犬を見ての雑感

梶原 健次
(かじわら けんじ)


<2004年10/09掲載>
 「犬は好きさぁ、うまいからよ」。7年前、宮古に移り住んで間もない頃にカルチャーショックを受けた一言です。韓国や中国などで犬を食べる食文化があることは以前から知っていましたが、宮古の一部でもその文化があることは知らず、正直驚いたものです。犬を食べるなとは言いませんが、私はぜひ遠慮したい所です。

 私は牛を食べますし、豚、鶏、ヤギも食べます。牛でも犬でも「殺してはかわいそう」との意識がありますが、食品トレイに乗せられた精肉や加工品、できあがった料理を見ると「うまそう」に変わっています。でも犬や猫などは食べません。料理されて出てきても、それと分かっていれば食べることはないでしょう。栄養学的に食べられるかどうかの問題ではなく、文化的・慣習的、あるいは主観的な問題です。

 以前、知人は自宅で飼っていた鶏を食卓に出したところ、しばらく娘は口をきいてくれなかったと話していました。普段は鶏肉を平気で食べているくせに、ともこぼしていました。私自身もそうですが、日常生活で生きた動物を殺して料理する機会は、魚介類を除いてほとんどありません。「殺す、命を奪う」という重要な過程を経ずに、生きている状態と調理された状態だけを見ているので、頭では同じ動物と理解していても感覚的には全くの別物になっているのでしょう。

 加工食品ともなればなおさらのことで、食べ物を粗末にしたり、大量の残飯を出すことに何も感じるものはないでしょう。昆虫採集や解剖実習、または生きている鶏などを料理する体験を子供にさせることの是非が議論されることもありますが、命を奪わずに命の大切さを理解することはできないのではないかと私は思います。

 とは言え、動物を「みだりに」殺傷したり、虐待することは〈動物の愛護及び管理に関する法律〉で禁じられています。同法では捨てることも禁じていて、人が飼育している哺乳類、鳥類、は虫類が対象になっています。食べるにせよ、かわいがるにせよ、動物を適正に取り扱う基本原則として示されているわけです。

 先日、知人が1頭の犬を拾いました。それは最近まで飼われていたもので、どういう訳か捨てられたものでした。その知人は自分自身では責任をもって飼うことができないのですが、やせ衰えながらも人を信頼しきっているその犬の目を見て放置できなかったそうです。今その里親を捜していますがもし見つからなければ、野放しにして野犬となるのもまずいので保健所に引き渡すことになります。人の手を借りて安楽死させる、ということです。

 人は生きていくために動植物を食べ続けなければなりませんし、安全な社会生活を営むために動植物を一定の管理下におきます。すなわち日常的に生殺与奪を続けているのですが、そのこと自体は必要なことで、悪いことではありません。ただ私は人間の都合で捨てられた犬を見て、里親が見つかるか否かの運次第で短い一生が終わるかも知れないと思うと、とてもやりきれない気分になるのです。

  (宮古ペンクラブ会員・平良市栽培漁業センター)

top.gif (811 バイト)