ぺん遊ぺん楽



美味いものは後に

下地 康嗣
(しもじ やすし)


<2004年09/11掲載>
 旧盆のウフス(仏の送り)を妻と2人で済ませたが、なんとも侘(わ)びしい思いであった。例年子や孫たちと賑やかに送るのだが、今年は旧盆が新学期に近く、学校や仕事の関係もあって、本島から来ていた子や孫たちはウフスを待たずに帰って行った。

 供えものの料理やお菓子などをどう処分するのか、仏さんのいない方々へ配るのも最近はありがた迷惑という事もあり、妻は浮かぬ顔である。しかしそれよりも、どうやら火が消えたような寂しさが不満となっていて、それが言葉の端々に覗(のぞ)いている。

 せめてもの慰めは、ンカイ(ウンケー)の日のミスジューシ(混ぜ御飯)を、おばーちゃんの混ぜ御飯は美味しいねーと、お代わりしながら、うまいうまいと食べていた孫の言葉と食べっぷりであろう。

 お盆と言えば、ご馳走にありつける喜びでいっぱいだった自身の子どもの頃を思い出す。普段はお目にかかれぬ肉やテンプラを食えるだけ食っておきたいと胃袋に詰めた。揚句は消化不良をおかし、独特のゲップと下痢である。盆と正月はそんなことの繰り返しであったが、ひるまず食べ続けていたように思う。戦中戦後の慢性的な飢えの事情は、今の子らには想像も出来ないことであろう。

 ところで、衣食足りて礼節を知るというが、現今の風潮はその逆を行っているようで残念でならない。茶飯事という言葉があるくらいだから、食べる事はありふれた事であろう。しかし漫然と食べるのでは味気が無いし、それなりに意義を持たなければなるまいと思う。

 とある会合で、お膳の料理を前にして、ある先輩からあなたは「美味い物から先に食べるのか、それともそれは取っておいて後に食べるのか」と問われた。多分その先輩もそうだろうと思い「美味い物から」と応えた。それには理由があって、以前に読んだ本の中に、戦時中は信じられないような物を食べながら、日々をしのぎ、食事の最中でも空襲のサイレンが鳴れば、食事を中断して避難することもあり、悲しいことだが、貧しい食卓の物の中から、自分の好きな物を先に食べるという習性が身に付いた、という話を思い出したからである。

 これはまた別の話だが、ある映画で(題名は忘れた)、母親が子どもたちから、おかずを狙われるので、働く自分の身を案じ(母子家庭で自分が倒れれば結局子どもたちを不幸にするという思い)、子どもたちが手を出さない前に、おかずから先に食べてしまうというシーンがあり、子どもたちが大きくなってもその習性が続くのを見て、お母さん、もうおかずから先に食べなくともいいとよと、子どもたちに言われ、自分の習癖に苦笑いする話も思い出した。

 今は1人ひとり食への思いは違い多様であるが、食べる事は生きることの基本であると同時に、好みなどその形は、その人の生き方を写し出しているように思える。
 肥満とダイエット、飽食の時代だからこそ考えて見なければならない事のように思う。

 蛇足になったが、前述の先輩の答えは「美味い物はあとに」で、あてが外れたが、私も楽しみを後に残しておく方だった。いつの頃から自由に箸を付けるようになったのであろうか、どれ1つとってもまずいもののない時代、センスのない老人になったのであろうか。

  (宮古ペンクラブ会員・元校長)

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