ぺん遊ぺん楽


文化のバロメーター

長堂 芳子
(ながどう よしこ)


<2004年08/18掲載>
 沖縄本島を車で北上していくと、いつのまにか基地と並走する。鉄条網で仕切られた基地の中は、青々と綺麗に刈りこまれた芝生で整備され、まるで別世界。その内、マッチ箱のような家々が現れる。住宅地の一角だ。背の高いアメリカ人には、ちょっと低すぎる感じを受ける。が、生活様式が私たちのように玄関で靴を脱いだりしないので日本式住宅のように床上げしない分、低くても大丈夫なのだろう。

 子どもがいると思われる家の庭には、カラフルな遊具があちこち置かれている。ゴミ1つ落ちていない。人工的だが、ゆったりと流れるような空間。ここは本当に沖縄なのだろうかと疑ってしまいたくなる。でも何かがおかしい。そこに、何故違和感を感じてしまうのか? しばらく考えて、その理由がわかった。普通、これだけの家庭があり、洗濯日和にふさわしい日というのなら、どこかで洗濯物の1つや2つくらいは目にしそうである。だが、洗濯物が全く見当たらない。あまりにも生活の臭いが全く感じられない程すっきりしているのだ。

 アメリカ人と結婚している知人に聞いてみた。彼らは、洗濯物を人目に晒(さら)すということはしないらしい。洗濯物の干し方で、文化度を測るのだという。沖縄のように、天気がいい日に洗濯物を干したり布団を干したりする行為は、文化度が低いとみなすようだ。だから彼らの生活はホームランドリーが行き届いている。基地の中に洗濯物が見えないのは、そういう訳だったらしい。

 台湾とか香港などアジアの国の庶民の住んでいる界隈にいくと、窓からヒラヒラたなびく洗濯物が見える。物干し竿を横に使う私たちと違って、彼らは縦に使う。アパートに突き刺さるたくさんの物干し竿は、確かに、ひどくゴタゴタしていて、密集した生活の臭いをプンプン放っていたものだ。

 そもそも文化度とは何だろう。文化とは、その地の気候風土に根ざして、長い間息づき育ってきたもののはず。だから、電気に頼らず、自然により近くその恩恵に浴する生活ほど、逆に文化度が高いというべきではないだろうか。沖縄のように、太陽の恩恵をたっぷり受けられる環境にあっては、これを利用しない手はないではないか。

 洗濯物を思いっきり広げて干していた、故郷伊良部での庭先の風景を思い出す。大空の下で堂々と干された洗濯物は、心地好い風にゆれていた。洗濯物からは、その家の様子が垣間見えるものだ。1人暮らしのおじいちゃんの物干しロープには、下着だけが堂々と干されていた。昔なら、それが懐かしい褌だったこともあるが、下着をかくも干す自由さは、田舎ならではのものだったし愛すべきものだと思う。太陽の光をたっぷり浴びた洗濯物は、ふんわりと温かく、ティダノカザ(太陽の香り)がするのも嬉しかった。

   (宮古ペンクラブ会員・歯科医師)

top.gif (811 バイト)