ぺん遊ぺん楽


「台湾東岸列車紀行」


清水 早子
(しみず はやこ)


<2004年07/28掲載>
 3度目の台湾行き。最初は往復空路。2度目は往路は船、復路は飛行機。今回は往復船にした。だんだんスローになっていく。3年前、2度目の台湾へ向かうときは、勇壮な飛行をするぐんかん鳥たちが西表島あたりから台湾の手前まで船について来た。飛び魚も船の脇を海面から飛翔した。今回、伴走者たちはいなかった。

 基隆(きーるん) 北端の都市基隆の海は濃い灰色で、海面はどぶ臭い。昔の大阪湾を思い起こす。多くの乗用車やバイクが行き交う道路も、排ガス規制前のかつての日本の都市の匂いがしてスモッグ色の郷愁が湧く。東南アジアの都市特有の暑苦しさの中に夜市が並ぶ。溢れんばかりのみずみずしい魚介類、36色のクレヨン箱をひっくり返したような色とりどりの果実類、着色料や添加物たっぷりそうな原色のお菓子類、きらめく模造品のアクセサリーの山。台湾の夜市は心が妖しくなりそうで魅力的だ。翌朝基隆駅から急行列車「自強号」で花蓮(かれん)へ。

 花蓮 東岸はこの辺りから南端まで、原住民と呼ばれる9つの少数民族の居住区に入る。太魯閣(たいろかく)渓谷へ民宿のご主人に案内されて行く。いつかディスカバリーチャンネルで見た壮大な景観を目の当りにした。高い山の岩肌が渓流から垂直にそそり立つ。山を手斧で削って道やトンネルを作ったのだと言う。その作業で亡くなった300人近い人々を奉ってある祠(ほこら)は滝の上にあった。ここから奥の山岳中央部に、70年あまり前悲劇の村となった霧社(むしゃ)がある。日本軍と泰雅(たいやる)族の間で虐殺事件があった。当時支配していた日本軍はこの国でも少数民族の叛乱(はんらん)を引き起こすような圧政を強いたのだ。

 瑞穂(みずほ) 東海岸を南下する。山あいに宿が一軒しかない鄙(ひな)びた温泉があった。駅から数キロ山に入る。たまに道で出会う子どもたちは漢民族とは異なる彫りの深い顔立ちで愛らしい笑顔を向ける。花蓮では阿美(あみ)族の文化村で豊年祭の華麗な舞踊を見たが、この地域は泰雅族の居住区らしい。宿に食堂がないので、澄んだ青空に映える山の緑を楽しみながらテクテクと歩いて小さなお店に入った。泰雅族の商店だった。こちらが日本人だと分かっても彼らは親しげに語りかける。彼らの民族衣装を無理に私たちに纏(まとわ)わせ写真を撮れと勧める。老夫婦の屈託のない笑顔の背後に、歴史の闇を思うのはつらい。

 小琉球(しょうりゅうきゅう) 列車が台湾南端に近づくにつれ、黒っぽい海が彩色に変わる。線路の両脇はびんろうというタバコ代りの実のなる椰子の森だ。南端を回り込んで西岸の林邊(りんぺん)駅に着く。この西方海上に「琉球」と名のつく孤島があると知り、その響きにそそられ寄り道することにした。台湾で唯一珊瑚礁の島だという。リーフはないが宮古の海のように極彩色に冴える。普段見慣れた色彩の海を背に朱色の華美な寺が建つ姿はいかにも異国だ。昔台湾は「琉球」と呼んでいたが、沖縄が中国王朝に朝貢したため沖縄に「琉球」という称号が認められ、この小さな島に「小琉球」と名残が残ったとガイドブックにあった。どんな歴史が秘められているだろう。

 高雄(たかお) 列車の旅の終着駅。那覇行きの客船飛龍の乗客はたった台湾人6名、日本人2名のみ。大きな客船の二等は貸切状態だった。出港まで5時間待たされ、宮古へ帰り着くまで計40時間近く乗船した。船旅は時間に寛容になっていい。那覇から宮古へ向かう客船の二等は昔は雑魚寝でいつも唄え踊れの賑わいだったが、今は二段ベッドで仕切られ何だか寂しい。

  (宮古ペンクラブ会員・自由自在空間久松館主宰)
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