ぺん遊ぺん楽


最 後 の ペ ッ ト

与那覇 武治(よなは たけじ)


<2004年06/30掲載>
 豚小屋便所から投げ捨てられたブタの赤ちゃんが、少年時代最後のペットとなった。乳房の数より多く生まれた子豚は、親ブタによって弱い者から順に淘汰された。放物線を描いて投げ飛ばされる残酷な光景を眼の辺りにして、憐憫(れんびん)の情に火がついた。子豚は鮮血に染まって瀕死の状態であった。畑に穴を掘って始末する母をさえぎって「ボクが育てて見せる」と宣言した。母の説得に押し切られ、愛犬ポチを食べられたばかりの出来事だった。このときばかりは断固として逆らった。母は獣医の所在地を教えてシブシブ承諾した。

 南市場に飛んでいって獣医を訪ね、一刻を争う事態を説明して子豚の命を助けてくれるよう懇願した。先生は自転車に乗って往診しパックリ開いたお腹の傷を縫合した。子豚はグッタリして息も絶え絶えであった。先生は厳しい表情で、「バイ菌が入って化膿させないこと、ミルクを飲ませて栄養をつけること」などを指示してペニシリン軟膏を処方した。窮すれば通ずで、ワシミルク、哺乳ビン、オキシフル、ペニシリン軟膏は準備されていたかのように手に入った。日に何度も包帯を取り替え懸命に看病した。傷口はみるみる乾いて治癒し、哺乳瓶をグイグイ押し返してミルクを催促した。一命を取りとめて元気になった子豚は食欲旺盛、ビービーわめいてつきまとい足首をつついた。子ブタの鼻は驚くほど強靱で、野菜や芋畑を掘り返して台無しにした。

 思えば愛犬ポチは、どこまでも従順で思いやりのある賢い犬だった。けがをして落ち込んだり悩んだりするとクンクン鳴いて寄り添い、濡れた鼻を押し付けて心を通わせ、顔をなめて慰めてくれた。しかし子ブタには喜怒哀楽の感情は見られず、ひたすら食べることに専念した。その貪欲さに家中の者が振り回され、管理責任を問われた。

 戦後困窮を極めた時代、子豚は第一級の商品であった。ハワイの沖縄県人会は貨物船をチャーターして大量の豚を送り届け、祖国の復興を支援した。宮古島の子豚は高値で取引されて海を渡った。手を焼いて往生した子豚であったが、無事買い取られた。と母の便りが届いた。

 おなじ頃、漲水の港はサンゴ礁のひろがる海水浴場であった。夏休みともなると、連日子どもたちの喚声でにぎわった。現在の第2埠頭辺りの深みに、女の子が黒髪を傘のようにひろげて沈んでいた。髪をわし掴みにして引き上げ背中を叩いた、咄嗟の出来事であった。少女はせきこんで息を吹き返した。長じて、母が流動食を誤飲して呼吸停止に陥った。駆けつけた時はすでに魔の6分≠はるかに過ぎ、紫色の死斑が浮き出ていた。マウスツーマウスで懸命に空気を送り続けた。無我夢中であった。母の顔から徐々に死斑が消えて赤みが戻り、自力で呼吸を始めた。

 生死を分ける瀬戸際で無我夢中になった出来事は、罪深い人生を歩んできたなかで時折去来する、ささやかな武勇伝である。

 (宮古ペンクラブ会員・会社役員)

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