ぺん遊ぺん楽



花より団子と自然主義?

下地 康嗣
(しもじ やすし)


<2004年06/23掲載>
 昨年の台風14号では何ともなかった庭のサクラが、今回の4号で直径20センチ程の幹のど真ん中からへし折られ、門柱近くの古参の方は45度に傾き倒れかかった。クロキ他数本は小枝は別として被害無なので、どうにも解せない。サクラを切るバカを言い訳に放って置いた付けが回って来たか。サクラ以外も伸び放題で、剪定した方がいいと言うが、やらない。形づくらされた庭木をそれなりに美しいとは見るが、形成品のような姿には不自然さを感じて好きになれないのである。庭木や盆栽を愛する人々の顰蹙(ひんしゅく)を買いそうだが、己の無精を自然流、自然主義などと言って棚に上げる。

 庭と呼べる程の庭ではないが、何処から来たのかオオタニワタリは名のとおり、あちこちに跳び渡り、渡るにまかせてある。花も嫌いではないが、胡蝶蘭などがあまり長く咲き続けると、造花のような気がして何時まで咲いているつもりだ、と言いたくなると同時に花の哀れを思う。

 草花などを植えないわけではないが、それよりも野菜を育てる方に関心がある。いわゆる「花より団子」である。花の華やかさは短く、衰えいく姿に憐憫(れんびん)の情がわく。そこへ行くと、野菜づくりは生命力に溢れ、共生感があるのがいい。できるだけ種から育てるようにしているが、数本で間に合う瓜類などは苗の購入の方が手っ取り早い。

 自宅裏の50坪程の小さな菜園だが、自然主義は露地栽培に無農薬、有機肥料にこだわる。スーパーなどの野菜(多分農薬づけ)を買わないわけではないが、矛盾を承知で自前のものは我流を固守するのである。

 それだけに病害虫や小鳥などの対策に苦慮する。トマトは育てやすいミニトマトにしているが、今年は大型の桃太郎の収穫がかなりよかった。それは肥培管理を工夫し、防鳥ネットでヒヨドリの食害を防いだからである。防鳥ネットを知らなかったわけではないが、自然主義が許さない。あの頓狂な声にはいまだに馴染めないが、キャベツなどの虫や、耕す後から這出る虫を捕食してくれるのもヒヨドリである。仲間を袖にしていいものかと思っていたが、妻の執拗な意見に従い網をかけた次第である。

 自然主義とは体裁を憚(はばか)ってのことで、単なる「ガーズゥー」(我が強い)なのである。「ガーズゥー」には首尾一貫した主義主張があるわけではないのだ。

 「我が輩は猫である」の苦沙弥先生は漱石自身の投影だと言われるが、その苦沙弥先生、会話の中で、以前の言い分と違うのではないかと、詰(なじ)られると、怯(ひる)むどころか「意見が変わって何が悪い」と開き直る。一度の意見を、後生大事に撤回しないことがまるで美徳のように思うのは錯誤であり、「意見の変化は進歩、発展だ」と、肯定的に捉えるのがいいと言うわけである。どこやらの政治家が無闇にこうなるのは困り者だが、我が輩としては、肩の力も取れてくるし発想も自由になるのである。

 ゴーラのヤー(棚)でゴーラ(ゴーヤー)がザヤーとスダリ、トマトが鈴生(な)りに生(な)るのをジックリと眺めていると、喜びとともに活力が漲(みなぎ)ってくる。そして1個1個のゴーラやトマトが小宇宙のようにも見えて来るから不思議である。

  (宮古ペンクラブ会員・元校長)

top.gif (811 バイト)