ぺん遊ぺん楽

 
「6・23」〜「8・15」への回想

仲宗根 將二(なかそね まさじ)


<2004年06/11掲載>
 遅れて近代を出発した明治国家日本は、欧米諸国に追いつくために、「殖産興業」と「富国強兵」を2大国是(こくぜ)とした。広く産業を興して国を豊かにし、強大な軍事国家をつくることである。こうして日清・日露の両戦争、第1次世界大戦をへて、帝国主義国家を形成した。その膨張(ぼうちょう)政策は止どまるところを知らず、遂には「15年戦争」へと突き進み、全土を戦火にさらす破目に陥った。日本国民310万人、アジア諸国の民衆2000万人が犠牲となった。

 15年戦争とは、1931(昭和6)年9月、所謂(いわゆる)「満州事変」に始まり、1937年7月、「支那事変」(日中戦争)、1941年12月、「大東亜戦争」(太平洋戦争)となり、国内初の地上戦「沖縄戦」、広島・長崎への史上初の原爆投下をへて、1945年8月「ポッダム宣言」を受諾、全面降伏した。大日本帝国の崩壊である。「満州事変」から太平洋戦争までの15年間、休む間もない戦争つづきであった。

 国家総動員法等で青壮年はすべて戦場へ、あるいは砲弾や軍艦、軍用機等を造る軍需工場や炭坑、さらには陣地構築作業へと動員された。戦闘に直接役に立たない老幼婦女子は県外へ、農・山村へと疎開させられた。食糧も衣類等も統制令がしかれて配給制となったが、そのうち減配(げんぱい)、遅(ち)配、欠(けっ)配である。極端な物資不足で、民衆は飢えた着たきりスズメとなり、日夜猛爆撃に追われる日々であった。

 「沖縄戦」は1945年3月23日米軍の猛爆に始まって、6月23日に終わったことになっている。日本軍は現地徴集の防衛隊や男女学徒隊をふくめても約11万。これに対する米軍は空母40隻、戦艦30隻をふくむ艦船およそ1500隻、1600機の艦載機、54万8000人の兵力である。このうち18万2000人が上陸した。3カ月にわたって死闘をくりひろげ、6月23日に終わったという。戦後、沖縄県はこの日を条例で「慰霊の日」に定めた。しかし6月23日は、あくまで沖縄守備軍の最高指揮官が、数10万の非戦闘員を戦場に置いたまま、自決した日であって、それ以後も米軍の掃討作戦はつづいていたのである。

 宮古は1943(昭和18)年9月、民有地を強制接収して海軍飛行場(現宮古空港)の設営に始まり、翌1944年5月〜12月におよそ3万の陸海軍将兵が展開した。各学校をふくむ公共施設は兵舎に転用され、さらに陸軍中、同西飛行場を設営、宮古中(じゅう)を軍事基地化した。入れ替わるように老幼婦女子およそ1万人は台湾や九州へ疎開させられた。表向きは米英軍の侵攻は不可避であり、安全な所に避難して少国民の教育をつづけるということだが、実際には軍隊の食糧確保であり、作戦遂行上役に立たないゆえの強制立ち退きともいえた。「沖縄戦」以後も連日米英軍の猛爆にさらされ、平良のまちはもとより集落のほとんどが焦土と化し、多くの犠牲者を出した。

 ラジオは軍に真空管を抜かれ、新聞は資材の補給なく停刊、郡民は戦況はもとよりあらゆる情報から締め出されていた。このため8月15日正午ラジオ放送による天皇の所謂「玉音放送」を直接聞いた人はいない。すべては軍部からの間接的情報である。来間国民学校の職員・児童は同島に布陣していた120人の軍隊と一緒に17日「終戦詔書(しょうしょ)」の「奉読(ほうどく)式」を挙行している。他の学校は22日〜24日である。おそらく軍の通信機でもたらされた「詔書」(天皇の言葉)が宮古支庁によって刷り物にされ、各学校に配付されて「奉読式」となったものであろう。宮古の終戦は8月15日ということになる。

 沖縄本島を制圧した米軍は8月下旬、宮古・八重山・大東・奄美の日本軍に降伏文書調印のための連絡をとり、9月7日嘉手納の米軍基地で調印式を挙行している。日本軍を代表する最高指揮官は宮古在の中将であった。他の指揮官はすべて少将である。

 「沖縄戦」の最大の教訓は、「皇軍」は国民を守らないということに尽きる。同様のことは敗戦末期の「満州」でも指摘されている。6月〜8月は在沖米軍基地から飛び立つイラク出撃に、戦時立法ともいえる有事立法をからめて考え、行動する日々にしたいものである。

  (宮古ペンクラブ会員・宮古郷土史研究会長)
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