ぺん遊ぺん楽



台湾の「板橋」にて


友利 吉博(ともり よしひろ)


<2004年06/04掲載>
  昭和17年(1942年)集団疎開で渡った台湾台北(タイペイ)の板橋(パンチョウ)で過ごした日々は今なお脳裏から消え去ることはない。山も川もない宮古島から初めて海外の地に渡った少年の目を見張らせた山川草木雄大な大自然と共に台湾板橋での思い出の数々は涙したくなるほど懐かしくよみがえってくるのである。

 疎開地での生活は必ずしも豊かなものではなかった。質素で貧しく厳しいものだったと表現した方が言い得ている。しかし10歳にも満たなかった少年に逞しく生きるための尊い知恵を教え、人の情の深さや時にはその狭隘さまで、さらには四方の自然環境と上手に共生することの大切なことなど、人として体得しなければならないことの礎はことごとく疎開地台湾そのものが築いてくれた。

 敗戦も板橋で知った。そしてその日を境に疎開生活は一変した。一教室ほどの倉庫に山と積まれてあった米俵は戦勝国民となった現地人に没収されて底を突いた。日本人に対する不穏な空気も日に日に濃くなっていた。間もなく私たちは追われるようにして北部の港街基隆(キールン)へと急いだ。岸壁の巨大な倉庫には引き揚げ船乗船のため台湾全土から集まった日本国民が収容され寝起きしていた。基隆は雨の街だった。連日しとしとと 降り続いていた。高校国語で源実朝の詠歌「時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめ給へ」(金槐集)を学んだが当時の心境はその通りだった。

 そんな中、私は板橋の海山国民学校(現小学校)でのあれこれをよく思い浮かべていた。海山国民学校は私たち日本国籍の児童生徒が通う学校で台湾出身の生徒も数名はいた。全校生徒数の 1割にも満たない沖縄宮古島からの編入学生の私たちは他府県出身の生徒から事あるごとに「琉球人琉球人!」と蔑(さげす)まれていた。そんな私たちに親しく接してくれたのは台湾出身の生徒たちだった。少数派としての連帯感を抱いていたようだった。

 台湾から引き揚げて20数年が経過した日々の中、私は板橋への『望郷』の思いが抑えきれずパスポート片手に戦後の台湾へと渡った。ホテル国賓大飯店で荷を解くと弾む心を抑え抑え汽車で台北車站(駅)から少年時のふるさと板橋に急行した。車窓から眺めたかつての田園風景はもうなく大小の堂々としたビルが延々と連なっていた。荷車や水牛車がのどかに往き来していた懐かしい道路も幅員を拡張されアスファルトで美しく舗装されていた。板橋の駅舎は嬉しいことに昔のままだった。少年期の親友にめぐり合ったような大いなる満足感に包まれ繰り返し柱、壁、手すりを撫でつけていた。駅から見渡した建物にも大きな変化はなく駅前の小公園の木々は当然のことながら大樹に育っていてベンチで憩う住民に豊かな緑陰を恵んでいた。

 しかし私の『母校』海山国民学校はコンクリート造りの校舎が建ち並ぶ高等学校へと変身していた。校門脇には守衛小屋があり私の訪問は構内電話で伝えられた。案内され校長室に向かうと既に 7、8名の先生方が立ち並んでいてなぜか拍手で迎えてくれた。「琉球政府立宮古高等学校教諭」の名刺を見やっていた女性の校長先生はたどたどしい日本語で「先生は本校の遠い昔の先輩です。歓迎します」と言った。思わず涙がこぼれた。

  (宮古ペンクラブ会員・平良市文化協会副会長)

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