ぺん遊ぺん楽


メークズマのえん源

― 多良間村から見ての宮古島 ―


照屋 盛(てるや もり)


<2004年05/19掲載>
 多良間村(水納を含む)に住んでいる大方の皆様は、平良へ用事で出るとき平良(ピィサラ)へといわず「メークンケー」という言い方をする。他町村や離島の皆様は、平良をピィサラとよび、用事があるときは、ピィサランカイという。

 宮古の文化、経済の中心地であり最大の広さを擁する宮古島を多良間村の皆様は、メークズマといい、周辺離島の皆様は、ウプズマと称する。水納島の皆様は、多良間島を同様な呼び方をする。

 八重山の皆様は平良市をさして宮古といい、また宮古に住んでいる人々は、ナハへ用事で行くとき「ナハへといわずオキナワへ」と使う。このことからなにか歴史的に因縁があるような気がする。

 1500年代仲宗根豊見親は、王府へ初めて朝貢している。また八重山の豪勇オヤケアカハチを征伐するため彼の地へ出陣し戦果を挙げ石垣を寄進している。また1522〜67には、与那国の鬼虎を制圧している。その結果かの島々は、宮古の版図に組み込まれる。一方、多良間村は、分村以前は平良村の一部で平良に統治されていた。分村の経緯について簡単に触れる。1908年4月1日村制施行が実施される。1913年(大正2)2月14日平良村から多良間村へ独立する。

 ここでメーク(宮古)の由来について触れる。沖縄本島とその周辺の島々では、「前」のことを「メー」という。つとに知られる民謡「メーヌ浜」に端的に現れている。クは、カの変化したもので在処(ありか)すなわち場所・島を指す。

 敷衍(ふえん)すると、「カ」は、名詞または、動詞の連用形の下に付いて住処(すみか)、億処(おっか)、山処(やまか)等のように場所を表す。以上のことからメーク(ミャーク)は、メーカ→メーク(ミャーカ→ミャーク)となったと考える。
 宮古の呼称については、仲宗根將二氏が宮古毎日新聞に連載「宮古の歴史をたずねて」で「宮古の呼称」(上13・下14)と題して執筆しておられる。参照していただきたい。

 ちなみに現在の地名は、漢字の「当て字」が多い。そのことが語源をたどるとき1つの障害、隘路(あいろ)となっている。卑近な例として「漲水」「塩川」「西辺」等がある。人は、地名の語源を調べようとするとき字づらにこだわる。この事が誤謬(ごびゅう)の元になる。

 さて多良間村は、分村以前は平良村の一部であり行政的に1つであり、兄弟関係にあった。それが村制施行によって分村した。大正2年のことで分村してから90年を迎える。その間には太平洋戦争、大型台風、大旱魃と未曾有の災害に見舞われた。そういう幾多の苦難を乗り越え今日を迎えた。

 以上、述べたことが背景となってメークズマとピィサラが疑う余地のない程に渾然一体(こんぜんいったい)となり、村民の全身をめぐり生活に浸透していったものと考えられる。今日でも用事で平良へ出ることを「メークンケー」という。歴史、積み重ねはこわい。

  (宮古ペンクラブ会員・無職)

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