ぺん遊ぺん楽



スポーツと真摯敢闘(しんしかんとう)

渡久山 春英(とくやま・しゅんえい)


<2004年05/12掲載>
 閏(うるう)年と言えば誰でもオリンピックを想起するのではないだろうか。または、西暦の年号が4で割り切れる年がオリンピックの年であることも常識である。8月13日の開会が待ち遠しい。「イチニツイテ・ヨーイ」はギリシャ語ではどのように発声するのだろうか。考えるだけでも鳥肌のたつこのごろである。

 さて、宮古の「砂川泰久」と言えば今に伝わる沖縄県を代表する長距離走の王者のことである。宮国猛氏の著書「宮古の体育・スポーツ史年表」に鮮明に紹介されている。その一部を引用してみよう。明治36年城辺町西里添(西中)に生まれる。砂糖運搬の車夫として働いたことが幸いして足腰を鍛え、昭和3年の東京―京都間の東西対抗駅伝競走大会に沖縄県を代表して出場し、西軍を勝利へ導く原動力となった。8区の20キロを1時間4分20秒で走り「素足の泰久」と日本中を驚かせた。「いもはだし」の時代の強靱な精神力は宮古の手本としたいものである。

 もう1人、沖縄に「日本一の男」と言われたその人は、円盤投の勇者宮城栄仁(故人)である。彼は、昭和15年に満州大連での極東陸上競技大会において46・19メートルの日本記録を樹立し、この記録は戦後まで破られなかった(玉城忠…沖縄県体育協会参与)。

 私は、高校生の頃に宮城栄仁氏から直接円盤投の指導を受けた。氏は県陸協の役員として宮古出張の機会に、宮農高の立津時男先生の肝煎りで実現したのである。巨体の豪快な投擲(とうてき)の技術の指導もさることながら、次のような話も記憶している。(1)自分の無知に気付かないと上達しない(2)謙遜・朴訥(ぼくとつ)であれ(3)必勝とは結果が証明することだ。

 余談になるが1955年に宮古陸協は高校に新しい種目として円盤投を加えた。前述の宮城栄仁氏の指導の甲斐あって私は優勝した(32・51メートル)。5年後には現上野村長川田正一氏によって更新された(34・21メートル)。

 駅伝の名門西脇工業高校の渡辺監督には「必」の字の「ノ」は、選手の心の「タスキ」に見えるそうだ。必勝ではなく1人ひとりの心のタスキのリレーが大切であり、このことが結果に結びつくことを指導の要点にしていると話していた(NHK深夜便放送)。

 私は、中体連の競技場を見学するのが好きだ。響動(どよ)めく応援には年齢を忘れて浮き立つのである。若さの特権である無垢で真摯なプレーにひきつけられるからであろう。また、各チームの部旗を見渡すのも楽しい。部旗にはチームの士気を鼓舞する文言が普通であるが、ある学校の部旗は変わっている。「真摯敢闘」の四文字が力強く目をひくのである。この部旗を創案作製した上地幸市先生は「勝負では負けてもプレーには負けるな」と口癖であった。スポーツの極意を知らされた25年前のその部旗は今も輝いている。

 スポーツの祭典オリンピックは近い。世界の達人たちの真摯敢闘の妙技を早く見たい。

  (宮古ペンクラブ会員・元学校長)

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