ぺん遊ぺん楽


分島増約案と先島の人々

久貝 徳三(くがい とくぞう)


<2004年04/28掲載>
 沖縄の廃藩置県と前後して、日本政府が清国(中国)との間に締結しようと画策した条約に、「分島増約案」というのがある。

 日本政府は琉球国を併合しようとしていたが、当の琉球国や宗主国・清国はこれに強く抵抗していた。そのため、日本政府は、沖縄本島と周辺離島は、これまで通り琉球国として独立させ、奄美大島は日本の領土、そして宮古と八重山は清国に分割譲渡すという対案をだしてその実現をはかった。

 明治4年、日清間では「日清修好条約」が締結されていた。が、この条約で日本は欧米諸国並の「最恵国待遇」が認められていなかった、そのため、この分島増約案と引き換えに、最恵国待遇を清国に認めさせるべく働いたのである。日本政府にとって、宮古・八重山はトカゲの尻尾くらいにみられたのであろう。時の琉球国も、独立を認めさせるためには、仕方ないとみていた節がある。
 ところが、この案は清国側の都合で締結されず、幻の条約となった。
 このことを当時の、宮古・八重山の人たちは知っていたのだろうか。知っていたとすれば、どのように反応し行動したであろうか、興味のわくところである。

 日本政府の思惑通り、この条約が締結されていたならば、今頃、宮古・八重山の両群島は中国の領土、そしてわれわれは、台湾の一離島に住む、琉球族となっていたはずである。

 その頃、琉球の士族社会には、琉球王国の独立存続を請願するため、清国に密航した若者たちがいた。「脱清の士」である。琉球王国にとって清国は宗主国であり、頼りになる大国だった。「唐(中国の昔の国名)やカラ傘、大和や馬ぬ蹄、わした琉球や針ぬ先」と、言われていた言葉が、それを現している。

 昭和26年、復帰運動が始まった頃、琉球の中国帰属論を、声高に唱える弁士がいた。
 沖縄県になって120余年、日本と中国の歴史は大きくかわった。日清戦争によって、台湾は日本の植民地として割譲された。日本は軍閥が跋扈(ばっこ)して世界大戦に突入し、結果、沖縄では地上戦で多くの犠牲者を出し、広島・長崎では原爆をうけて敗戦。
 戦後は戦争の反省もあって、一転して民主主義・自由社会、その結果経済大国へ。

 一方、中国は戦争の勝利で日本軍を追い出したとみるや、間もなく毛沢東率いる共産主義社会、そして現在は中国独特の社会主義市場経済へ。これによって中国の経済はめざましく発展していると聞く。

 脱清の士たちが望んでいたように、そして中国帰属論を唱えていた弁士の思惑通り、琉球が中国の一部となっておれば…。そして、清国があの分島増約案に署名しておけば、今頃、われわれは台湾人の仲間であり、尖閣列島の領有権をめぐって、中国と諍(いさか)いをおこすこともなかった。

   (宮古ペンクラブ会員・フリーライター)

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