ぺん遊ぺん楽

読書と人格形成

碩学(せきがく)が剔抉(てっけつ)する
戦後教育の盲点


下地 昭五郎
(しもじ しょうごろう)


<2004年04/07掲載>
 いつぞや本紙で、琉球大学名誉教授で文学博士の亀川正東氏が「本を読まない者は永遠に子供である」と題して投稿された。氏は「感動は心のトビラを開く。何に出会い何に感動するかということが大事で、特に本からうける感動は大きい。だから小さい頃から本を読んでほしい」という作家・椋鳩十(むくはとじゅう)の読書についての意義を冒頭に紹介している。

 ケータイ文化やアニメやマンガなど多くのサブカルチャーにどっぷり漬った最近の若者の生態を観るとけだし名作品などの読書が与える感動の心を多く経験してほしいと願わざるを得ない。

 小生が『白川静』という碩学(せきがく)を知ったのは、恥ずかしいながら、ほんの2年前である。梅原猛(仏教思想の権威)との対談集「呪の思想―神と人間の間―」を手にし、中国文学史、甲骨金文学の泰斗白川静の著作歴を知り、まさに、知の巨人の対談集とわかり、難解で味得するまでには至らないのではないかという不安が脳裏をよぎった。

 その碩学白川博士が文藝春秋(2004・2月号)に「文字を奪われた日本人」と題しエッセーを掲載している。その中で、氏は日本の戦後教育の欠陥を剔抉(てっけつ)して漢字教育の重要性を訴え、ご自身「文字文化研究所」を主宰し、母子向けの漢字教育を実践している。そして、単に文字学を普及させるのではなく漢字を通じて、東洋という理念を甦らせたい。それが私の宿願であると披瀝(ひれき)している。

 また、そのエッセーの冒頭には、「『漢字の素養』という言葉が、古色を帯びたもののように扱われるようになって久しい。学校教育においても、漢文、古典の授業は激減し、『難しく暗記中心のつまらないもの』『実生活に役立たない、不要の学問』として軽視されてきた。それが戦後教育の大きな誤りだった。なぜなら、東洋の古典を読むことは、大人の世界を学ぶことにほかならないからだ〈省略〉ところが今の学校では、大人になるための教育がなされておらない。かつて漢文、古典が果たしてきたような、直接、人格形成に役立つような教科はなくなってしまっている。これこそ、戦後教育の欠陥を象徴的にあらわすものだ。大人の世界を教えるどころか、逆に子供にこびてきた。最近、社会人になることを拒否しているような犯罪が新聞などをにぎわしています。子供から脱皮できずに、大人になりそこねているのです。蝉が地上に出てきて、殻を脱げずにいたら、飛び立つことはできん」と、93歳で現役の碩学は自らなお漢字教育の実践を広げる。

 正高信男(比較行動学)は「ケータイを持ったサル」で、携帯電話で「家の中」感覚で私的にしか言語を使わない若者のサル化を危惧する。こうしたケータイ族やパラサイトシングルや大人になりたがらないモラトリアム人間も戦後教育の欠陥の落とし子だろうか。このような世代の親たちそのものが実は、戦後の欠陥教育を受けた世代であるだけに、白川博士の漢字教育の実践のもつ意義は計り知れない。この国の物の豊かさを追求する技術革新のテンポと複雑化する社会構造の中で社会化(大人化)を忌避する若者は今後ますます増えていくのだろうか。こうした世相に安逸に流されることなく、薄っぺらな人生を送らないためにも家庭や学校や地域社会で感動を与える古典などの読書の機会をもっと多くつくる必要があるのではなかろうか。

  (宮古ペンクラブ会員・元高校教諭)

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