ぺん遊ぺん楽



『偶然』の連鎖が恵んでくれたもの


友利 吉博(ともり よしひろ)


<2004年03/19掲載>
 話は宮古高等学校が琉球政府立だった頃にさかのぼる。英語科の大城先生は恩納村出身だった。共に若く教育理念も一致するところがあって親しくしていた。そんな彼がある日わが家にやって来た。今は亡き祖母が大事に保管していた写真を見たいと言う。父が恩納村で過ごした時の写真だった。10枚ほど並べた。神妙な面持ちで1枚1枚見入っていた彼はやがて「いた!」と叫んだ。「この中央にいるのが僕の父です!」と興奮気味に告げた。そして顔を曇らせ「戦災で家にはこんな写真は1枚も残っていないんです」と言った。

 昭和5年3月20日、沖縄県師範学校を卒業した父恵吉の初赴任地は恩納村だった。同月31日父は恩納常高等小学校訓導に、6月には恩納青年訓練所嘱託指導員並びに恩納実業補修学校助教諭にも任命された。祖母の話によると、昭和8年、恩納村は宮中の新嘗祭(にいなめさい)に献上する新穀(新米)の田植え式を挙行した。早苗は身を浄めた乙女18名の手で紅白の幕に囲まれた水田に厳(おごそか)かに植えられた。父は乙女たちを指導し式の大役を務めたと言う。式後、村長や父や乙女ら、そして関係者は勢ぞろいして記念写真を撮っている。大城先生が「中央にいるのが僕の父」と指さした人物は奇しくも田植え式を取りしきった時の村長だったのである。

 写真から田植え式へ。田植え式から村長へと偶然の連鎖は続いて20年が過ぎた昭和60年。私は沖縄県主催の「心豊かなふるさとづくり全県大会」に招かれ、琉球大学阿部統教授の講演に引き続き『緑の街角賞』について事例報告した。終了後の懇親会で私にいち早く質問し恩納村でも発表して下さいと熱心に要請したのは、村役場職員の當山加代子さんだった。ありがたく受け止めながら私は大城先生に見せた写真のことや父の教員初赴任地が恩納村であったことなど、いろいろと語り合った。

 結果として恩納村での事例発表は果たせなかったが、1年後、私は思い掛けない電話を受けた。私のことを當山さんから聞かされたと言い、穏やかな口調で「父上の教え子の佐久本富です」と自己紹介した。恩師の息子が宮古で健在と知って私や同級生たちはあなたに会いたがっている。後日(往復)航空券を送りますから是非来て下さい―と言われた時は仰天した。余りに熱心な招きに私は(航空券は固辞した上で)必ず伺いますと応えた。1月後、喜びと不安が交錯する妙に落ち着かない気分を抱えながら私は名護行きのバスに乗り込んだ。途中の恩納村に着くと即座に役場に寄り、當山さんに案内されていよいよ会場のレストランへと向かった。和室の会場には80代前半の女性12、3名がきちんと正座して待っていた。そして私を見るや開口一番「先生にそっくり!」とざわめいた。

 父は私が3歳の時支那事変で戦死した。記憶がまったくない父の人間像について皆さんは目を潤ませながら多くの貴重な情報を与えて下さった。最後に全員立ち上がった皆さんは「先生に教わったのよ」と前もって印刷してあった校歌と愛唱歌2曲を明るく美しく合唱した。支払い済みですから、と強く勧められ私は予約してあった那覇のホテルをキャンセル、恩納村のリゾートホテルに泊まることになった。翌日、父が下宿したお宅や献上米の水田跡に案内された私は若き日の父の生活の一端を追体験した。世界空手道選手権大会で七連覇を成し遂げた佐久本嗣男氏は、私のために同期会を発案して下さった佐久本富さんの令息だった。

  (宮古ペンクラブ会員・平良市文化協会副会長)

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