ぺん遊ぺん楽

 
53年目の対面


幸地 ヨシ子



<2004年01/09掲載>
 もの心ついた頃、父の肖像画は威厳よく我が家の一番座に揚げられていた。
 叔母たちは幼い私に「おとうは立派な人だったよ」といつも誇らしげに話していたが、どんなに立派だったと言われても確たるものはなく、その肖像画はとても父の姿には思えなかった。特に目のあたりがぼやけて描かれたのを怖がり、祖母を泣かせたこともある。私が生まれてまもなく戦死したという父の存在は全く実感がなかった。その事で寂しい思いをしなかったのは、近所に叔父や叔母の家族がおり、貧しいながらも支えあってくらしていたからだ。同級生にも父親を戦争で亡くした人はいたが戦災遺児としてそれぞれにたくましく成長していた。
 私が成人した頃から母は戦争当時の話を少しずつ語り始めた。大切な写真などを安全と言われていたお墓の中に避難させていたにもかかわらず、空爆にあい、残してやれなかった事を残念がり、あの肖像画は、すりきれた 1枚の写真からようやく復元したのだという事を知った。
 志願兵として遠くジャワの地で戦死した父は遺骨もなく、戦友が持ち帰った白い小石と化してお墓に眠っている。
 平成8年11月、突然具志川に住む兄から県紙の夕刊を見るようにと電話が入った。記事は「具志川市の市史編さん室の海外取材で貴重な庶民の日記が見つかった」という内容である。記録を残したのは具志川出身でアルゼンチンに移民した前堂氏。彼は父方の親戚にあたり、アルゼンチンから一時帰郷のおりに撮った写真も同時に掲載されていた。七名の男性が写っている記念写真の中ですぐに父を見つけた。終戦から半世紀もすぎて、生まれてはじめて父親と対面する気がした。
 背広姿の父の顔は、くっきりと写っていて、私の心の片隅に残っていた瞼の父がようやく形となって現れた瞬間だった。
 前堂氏の日記は1937年―1949年までのものが残され、移民地での出来事、特に沖縄戦時下の親族とのやりとりなどが、遠く離れた地で憂える日々を克明に綴っている。
 市史編さん室ではこの貴重な日記を市民に伝えようと資料編として出版したところ、県内のマスコミや市内外から大きな反響があったという。発刊にあたって「この日記は、広く当時の移民の様子や世相を知る第一級の資料価値を持つものと確信」と記されている。
 その後、関係者のご厚意で私の手元にも父の写真2葉が届いた。この喜びを伝えたい母や祖母はもういない。が、私にとっての戦後がやっと終った。
 今日も、テレビの画面には戦争のニュースが流れ、栄養失調で不安げに母親に抱かれる幼な児に自分の姿が重なる。
 何のために戦争をするのだろうか。父の写真を見ながら、ふとそんな事を思う。

 (宮古ペンクラブ会員・主婦)

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