200平成1  814曜日

下地敏彦氏で「一本化」か/宮古島市長選・保守系

 十月一日に発足する新市「宮古島市」の市長選に向け、宮古地区の保守系は選考委で先月二十五日に城辺町助役の下地敏彦氏(59)の擁立を全会一致で決定するも、分裂のしこりを残したままの決定となり、関係修復作業もこれまで進展していなかったが十三日午後、那覇市内で下地敏彦氏と最終選考まで残った前県議の坂井民二氏(55)、宮古出身で元衆議院議員の下地幹郎氏(43)らによる会談が行われた。話し合いの結果、下地敏彦氏からの協力要請に坂井氏も柔軟な姿勢を示したようだ。これまでに平良市議会の保守系議員団(下地秀一会長)が新市市長選の協力に向けた面談を坂井氏に求めており、きょう十四日にも実現する見込みとなっている。

 那覇市内で行われた会合には、日本商工連盟宮古支部長の中尾英筰氏(沖縄宮古商工会議所会頭)の仲立ちで行われ、保守系の関係修復と新市市長選に向け一本化する取り組みについて協議した。
 その中で、下地敏彦氏が坂井氏に保守系一本化と選挙協力を強く要望し、それに対して坂井氏は今後、市議団との話し合いを持ち、さらに後援会とも調整していきたいとの柔軟な姿勢を示したようで今後、関係修復に向けた動きが活発に展開される見込みとなっている。
 今回の会談には、衆議院解散に伴い九月十一日に行われる衆議院選挙の沖縄1区から民主党の推薦を得て立候補する予定の下地幹郎氏も同席し、新市の市長選に向けて協力体制を確認したようだ。
 宮古地区が入る4区よりも、下地氏が立候補する1区をめぐる今後の動向が宮古地区保守系の関係修復作業の進展にも大きく影響しそうな状況となっている。
 下地敏彦氏からの選挙協力要請に対して、これまでよりも柔軟な姿勢を示した坂井氏は、きょうにも保守系市議団の代表と市長選に向けた話し合いを持つ予定で、その成り行きが注目される。


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旧盆商戦が本格化/各スーパー、中元求めどっと

 十七―十九日の旧盆に厚いもてなしで先祖を迎え、世話になった人々に贈答品を贈って感謝しようと、平良市内の大型スーパーなどでは中元や打ち紙など旧盆必需品を買い求める客らでにぎわいを見せ始めている。中元は米やビールなど定番品が根強い人気。旧盆商戦は日曜日に当たるきょう十四日から本格化の兆しだ。
 今年の旧盆は入りが十七日で送り日が十九日。宮古では、旧盆を迎える前に中元の品を贈るのが習わしで、スーパーなどでは商品をまとめ買いする買い物客らの姿が目立つ。あるスーパーによると、米三`やビールなどの定番品をまとめて買いつつ、ハムなどの高級品をワンクラス上の贈り物として差別化している客が多いよう。また、昨今の健康ブームで、豆乳や野菜ジュース、もろみ酢や黒酢などの健康飲料のセットを贈る人も増えてきているという。
 中元の品を購入していた城辺町比嘉の平良キヨさんェオは「二十人ほどに贈る予定。料理に使う食材は直前に買う。本家なのでお盆にはたくさんの人が集まるため何かと大変だが、皆に会えるのはうれしい」と笑顔で話していた。


写真説明=旧盆を控え、世話になった人々へ贈る中元の品を選ぶ買い物客ら=13日、サンエーショッピングタウン宮古食品館

 
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平和の思い胸に/あす終戦から60年

 第二次世界大戦の終結からあす十五日で六十年を迎える。唯一の地上戦となった沖縄では、軍人や住民など大勢が尊い命を失った。宮古島も一九四四年十月十日の「10・10空襲」で焼け野原と化し、多くの住民が犠牲となった。当時の様子を戦争体験者に語ってもらった。

◆軍命で宮古神社建設/奥平恵道さん(83歳)
 兵隊として戦争に駆り出され、台湾をはじめシンガポールやジャワなど南方を巡った奥平恵道さん(83)は、衛生兵として病気やけがを負った兵隊の看病に当たった。赤痢がはやり自らも病気にかかったが、体にむち打って他の兵隊たちの看病に明け暮れた。理髪師の免許も持っていたため、部隊長など上層部の散髪によく呼ばれたという。「とにかく無事に生きて帰れたから良かった。勝ち負けよりも戦争が終わったことが何よりもうれしかった」と振り返る。
 日本軍の命令で、一九四二年から四三年にかけて宮古神社を旧平良市民会館があった場所へ移転させた時期があった。付近に住む住民たちは作業に駆り出され、もっと大きくて立派な神社を、と要求する軍の命令に従い「勝つためには」と懸命に働いたという。「当時は無条件で奉仕活動しなければならなかった」。当時二十一歳だった奥平さんも父・恵和さんと作業に加わり、日々働いた。四五年一月、完成した真新しい宮古神社に新師団長らが戦勝祈願に訪れたが、その年の八月十五日、日本は戦争に負けた。
 兵隊として召集されていた奥平さんはインドネシアでその日を迎えた。「宮古に残した家族が心配で、とにかく帰りたかった」と語る。「アメリカが沖縄に上陸したことを知った時は、読谷出身の兵隊が『もう自分の家族はきっとだめだろう』といつも心配して泣いていたよ。帰りたいという思いはみな同じだった」。故郷に帰り、家族の安否を確認したいという思いは強かった。
 戦争が終わり、宮古に戻ったのは四六年。一面焼け野原だったが奥平さんの実家は被害を免れ無事だった。父や仲間たちと建てた宮古神社は空襲で焼けはしたが損傷はひどくなく、終戦後は集会所として活用された。奥平さんは持っていた理髪師の資格を生かそうと、現在の平良市役所裏通りに理髪店を開店。物資がまだ何もなく、はさみやバリカンなど必要な道具は兄弟や親戚、友人から譲り受けなんとかそろえた。当時、店があった付近には平良市役所や裁判所、郵便局、警察署と官公庁の施設が多かったため、店はいつも繁盛していた。
 今年は戦後六十年を迎えるが、毎日のようにテレビや新聞で報道される事件や事故に心を痛める。「昔は貧乏だったけどまだ良かった」と本当の平和が訪れていない今を嘆く。「健康のためにもまだまだ仕事は続けるよ」。店に顔を出す客がいる限り、妻・タケさんと二人で心の奥で平和を願いながらきょうも静かに店を営んでいる。

◆米軍偵察機におびえる/伊良波ハツさん(81歳)
 一九四三年暮れ、平良市池間島の上空に敵機一機が飛来するようになった。「米軍の偵察機だったと思う。その偵察機は不定期的に現れた。住民らはいよいよ戦争が始まるとおびえていた」とこわばった表情で話す。当時、伊良波ハツさん(81)は二十一歳だった。
 四五年夏、伊良波さんら女性数人は、島北側の海岸でアダンの気根を取っていた。気根でよった縄は商品として売られ、貴重な収入源の一つだった。
 その海岸の北方から米軍機一機が低空飛行で向かってきた。米軍機は島の高い地形に近くで機首を上げ、機銃攻撃を始めた。小さな島が初めて標的になった。
「みんな恐怖で青白い顔になっていた。家族はどうなっているのか…」。
 米軍機が去った後、伊良波さんらは家路を急いだ。民家の一部は燃え上がり全焼した。住民のほとんどが持ち家の床下で避難していた。
 伊良波さんが家に戻ると、二歳の長男と親せきの叔父が隠れて無事だった。伊良波さんの夫は、兵隊で召集され本土へ渡っていた。
 米軍機の奇襲攻撃で、住民の男性二人、女性一人、本土出身の兵隊一人の計四人が亡くなった。住民は恐怖のどん底に陥れられた。
 池間郵便局は日本軍に接収され、本土出身の兵隊ら二十人が漁労班として使用していた。そこには台湾出身の青年一人が小間使いで働かされていた。戦死した兵隊は漁労班の一人だった。
 伊良波さんらは、近くの海岸にある自然の洞くつに避難。しかし、戦火は激しくなり、今度は北の浜へ移動した。海岸直下の砂を掘り、入り口以外は集めてきた石を積み防空ごうとした。
 四五年十月十日の出来事だった。
 伊良波さんは「平良港方面の海域に、今まで見たことのない日本の軍艦が四、五艦浮かんでいた。薄暗くなった時、空いっぱいに小型の敵機が現れ、軍艦に向かって空爆を始めた」と語る。その上で「激しい爆弾の音で、池間島が揺れ動いた。島はどうなるのかと、体中震えた」と話す。
 「ドーン、ドーン」と爆音がとどろき、軍艦は爆破され、全艦とも沈没した。火が燃え広がり、火の海となった。
 伊良波さんは「その時の光景を見た時、戦争がこれほどまでに恐ろしいものかと、背筋が凍っていた。翌日から米軍機は現れなかった。戦争は恐ろしい」と振り返り「いつの世までも平和であってほしい」と願った。
 

 



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「経験、きっと輝く」/豆記者が取材報告会

 第四十四次県豆記者団に宮古から参加した四人の児童生徒による取材報告会が十二日、県宮古支庁で行われ、先月二十六日から今月一日までの日程で東京、北海道で行った取材活動や楽しい思い出を笑顔で報告した。
 報告会では、源河未来さん(下地中一年)、仲本寿乃さん(北中一年)、源河章乃さん(下地小六年)、佐志田萌恵さん(福嶺小五年)の四人が期間中の貴重な体験を報告し、今後の学習、生活にも役立てていくことを発表した。
 今回の県豆記者団は四十人で、そのうち宮古からの参加は四人。先月二十六日に那覇を出発し、八月一日まで六泊七日の日程で、東京では国会議事堂や総理官邸など、北海道では北方領土に関する取材を道庁ほかで行った。
 取材を終えた四人は、小泉純一郎首相に会えたことや北海道で取材した北方領土問題に対する意見などを堂々と発表した。
 宮古地区豆記者交歓会の本村幸雄会長は「最近、平良市と世田谷区が友情のきずなの確認書を交わしたきっかけも豆記者団の交流がスタートと聞いている。今回、皆さんもたくさんの人と出会えた経験が皆さんを輝かしてくれると思う」と激励した。

写真説明=豆記者団に参加した宮古地区の4人の児童生徒が楽しかった取材活動を笑顔で報告した¥和書体(1023)=q日、県宮古支庁

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宮原老ク、結成10周年で祝賀会

 宮原老人クラブ(平良玄慶会長)は十三日、宮原公民館で、結成十周年祝賀会を催した。七月二十二日に開催された第九回平良市老人クラブグラウンドゴルフ大会(主催・同市老人クラブ連合会)で三位に入賞した宮原Bチームも併せて祝い、大勢の高齢者が宴席を楽しんだ。
 同クラブは、一九九四年に「年金友の会」としてスタート。昨年四月、結成十周年を記念して宮原老人クラブに改編し、宮古地区や平良市の老人クラブ連合会にも加入して活動の場を広げている。
 祝賀会で平良会長は「会員が力を合わせれば今以上に楽しい活動ができる。皆で足腰の強い老人クラブをつくろう」とあいさつを述べた。
 会員代表の照屋健光さんは「ゲートボールや演芸、音楽などの部を作ろう」と提案。宮原自治会の小禄恵良会長は「宮原の輝かしい歴史を築き、地域を発展させてきたのは、現在の老人クラブ会員の皆さんたち」と感謝の言葉を述べた。
 宴席では、会員らが料理を囲みながらこれまでの活動の歩みを振り返り、オトーリを酌み交わして楽しいひとときを過ごしていた。

写真説明=宮原老人クラブの会員らが集い結成o周年を喜んだ=13日、宮原公民館



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