200平成1 6  曜日

合併協脱退を否決/多良間村臨時議会・

住民投票結果と異なる

 【多良間】多良間村議会(長嶺春勝議長)の臨時会が3日開かれ、村当局が市町村合併の是非を問う住民投票で「合併しない」が過半数を占めた結果を受けて提案した「宮古地区市町村合併協議会からの脱退について」の議案は賛成3、反対5の賛成少数で否決された。兼濱朝徳村長は「議会議決としての結果は受け止めている」としながらも民意を尊重し合併反対の姿勢を変えないとの態度を示している。住民投票結果と異なる議決に、住民グループの間では議員リコールに必要な署名はそろったとして、近いうちに村選挙管理委員会へリコール請求を行っていく方針。

 同案は起立で賛否を図ったところ、美里泰秀、佐久本昇、嘉手苅光徳の3氏が賛成、西平幹、森山実夫、石原朝英、安里積千代、洲鎌哲の5氏が反対した。上地玄純氏は体調不良のため欠席した。
 脱退に反対した議員は財政面や住民福祉を考え合併推進の立場を堅持。森山氏が反対討論を読み上げ「住民投票条例では、議会について規定していないので条例による拘束は受けない」と前置きし、「財政が危機的状況に陥る事が危ぐされ、住民福祉の低下が心配される」「合併による地方分権の受け皿づくりが必要」などの理由を挙げ、法定協議会脱退に反対した。
 脱退に賛成した議員は「何のための住民投票か。道義的責任は大きい」として強く批判。脱退に反対した議員が一度も質疑しなかったことを指摘しながら「全会一致で制定した条例。道義的責任はどうするのか。住民無視の議会」「民主主義を根底から覆す論議は許せない」「投票結果を尊重し守るのが住民の代弁者」などと追及した。
 結果を受け兼濱村長は「結果は残念だが、民意を尊重し合併に反対することには変わりない」と強調。「議決としての結果は受け止め認めている。今後の協議会での立場については関係者と話し合って方針を決めたい」と話した。
 脱退に反対した議員は「住民投票はあくまでも参考。財政面が厳しく、村民全体のためにも合併を推進したい。住民の反発はやむを得ない」と述べた。

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「合併反対は変わらない」/兼濱多良間村長・民意尊重を強調

 【多良間】3日に行われた多良間村議会臨時会で、「宮古地区合併協議会からの脱退について」の議案が賛成少数で否決された。住民投票で「合併しない」が過半数を占めたことを受け、自らも合併反対の意思を表明していた兼濱朝徳村長は「残念だが、結果は受け止めている」としながらも「民意を尊重し、合併に反対することに変わりはない」との見解を示した。今後の同協議会での立場については「関係者と話し合って方向を決めたい」と述べた。
 同案の提案理由として「住民投票条例の第16条で民意を尊重することを明記している。そのために合併協議会脱退の議案を提案した」と説明。結果として否決され、同案に反対した議員に対しては「一方的に反対討論し質疑がなかったのが残念。重大な問題だからこそしっかり質疑すべきだった。互いに議論すれば納得もいったと思う」と述べ、臨時会で反対した議員からの質疑が上がらなかったことを残念がった。

 写真説明・「民意を尊重し合併反対に変わりはない」との見解を示した兼濱村長=3日、多良間村長室

・「住民投票結果無視」と批判/合併反対住民グループ
 【多良間】「何のための住民投票だったのか」―。3日に行われた多良間村議会臨時会で「宮古地区合併協議会からの脱退について」の議案が否決されたことを受け、合併反対派の住民グループ「多良間村の自治と自立を推進する会」(高江洲常功会長)は怒りをあらわにした。同会では合併賛成派議員のうちの2氏に対する解職請求(リコール)運動を展開しており、「必要な署名はそろった」として早急に同村選挙管理委員会へリコール請求を行っていく方針。
 高江洲会長は「住民投票の結果を無視した議員に怒りを感じる。自分たちで条例をつくり破ったことに、道義的責任を取るのは当たり前」と強調し「リコール請求を近いうちに行いたい」とした。また「多良間は他市町村とは違う。合併しても一体感は持てない」と改めて合併反対の態度を示した。
 同会副会長の富盛玄三氏は「常識をはずれた議決は許されるものではない。住民のことを考えれば一歩立ち止まって譲ることも必要。合併に賛成する5人の議員が村民を混乱させる要因になっている」として、同協議会脱退に反対した五人の議員を批判。「貧乏な自治体でも、皆で知恵を出し合って工夫すればやっていける。先人たちもそうしてきた。貧しくても心が豊かであればいい」と述べた。
 こうした状況にある住民は「合併したから豊かになるわけではない。村を守っていきたいだけ」と話し、別の住民は「子や孫の未来が良くなることだけを願っている」と切実な思いを話した。

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次の目標は40万人突破/観光客35万人達成で祝賀会

 昨年の入域観光客が36万8902人となり、初めて35万人を突破したことを記念した「観光客35万人達成記念祝賀会」(主催・宮古観光協会)が3日夜、平良市のJAおきなわ宮古支店ホールで開かれ、観光関連企業、行政関係者が節目を祝うとともに、さらなる宮古観光発展を誓った。宮古観光協会の藤村明憲会長は「プロ野球などのスポーツキャンプの誘致やイベントの開催、チャーター便など地域住民をはじめ行政、関係企業が一体となって観光客誘致に取り組んできた努力のたまもの」と述べたうえで「今年は40万人を達成することは確実」と新たな目標達成にも自信を見せた。

 東京直行便が初就航した1989年に14万2750人だった宮古への入域観光客は、93年に20万4588人と20万人を突破、99年には32万3726人で30万人を達成。2003年には36万8902人を記録し、この15年間で約2・6倍と順調に伸びてきた。観光収入(推計)も89年の71億3750万円から03年は236億1785万円と3倍以上に伸びている。
 祝賀会であいさつした藤村会長=左写真=は、昨年の台風襲来による被害からの早期復旧に対し関係機関に感謝しながら「昨年の観光客数が36万8902人となり、ひとつの節目である35万人を達成した。祝賀会を開催し感謝の意を表し、さらなる発展を展望する機会としたい」と話し、また「国内外における観光地間の競争激化が進むものと考える。宮古においては市町村合併という大きな変革の中であるが、足元をしっかり見つめ、新たな気持ちで関係機関一丸となって宮古観光の発展に努めていきたい」と決意を述べた。
 伊志嶺亮平良市長(宮古広域圏事務組合代表理事)は「観光産業は今や宮古圏域の基幹産業として成長し、圏域の経済にとって必要不可欠なものになっている。この産業を維持・存続させ、さらなる入域客の増加へとつなげることがこれからの宮古圏域にとって最重要課題。多種多様な観光ニーズに対応するサービスの提供と質の充実、体制の強化を図り、ハード・ソフト両面のバランスをとり、関係者が再び一丸となって宮古観光発展に頑張りたい」と述べた。
 そのほか県宮古支庁の安和朝忠支庁長、沖縄観光コンベンションビューローの洲鎌孝常務理事も関係機関の取り組みに感謝しつつ、今後の宮古観光発展を期待した。関係機関代表らによる鏡開きの後、宮古市町村議会議長会会長の池間青昌平良市議会議長が乾杯の音頭をとり、35万人達成を祝福した。舞台の大型スクリーンでは近年の宮古観光の変遷がビデオで紹介された。また余興も披露され、祝賀会に花を添えた。

 写真説明(上)・多くの関係者が集まり観光客35万人達成を祝った=3日、JAおきなわ宮古支店ホール

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宮古上布 イスラム商人が伝える?/上布の起源に新視点・

森藤(もりとう)さん(名桜大)が卒論で考察

 【那覇支局】宮古上布の起源は隣の大陸文化の流れにあるのでは―。名桜大学4年、東京出身の森藤風子(もりとう ふうこ)さん(24)が卒論「大陸文化と宮古上布」で考察し、大陸の技術がイスラム商人により伝えられたという、宮古上布の起源に新しい視点を投げ掛けている。
   ◇   ◇
 宮古上布の起源は、今から400年前に洲鎌与人・真栄の妻稲石が織った「綾錆布(あやさびふ)」というのが従来の説明。
 宮古上布は繊細で美しく、国内では越後、能登、近江と並ぶ、4大上布の1つ。沖縄本島、八重山諸島で織られる布とは見た目、工程など、多くの点で異なる。紡ぎ・模様・染め・はたごしらえ・織り・砧(きぬた)打ちなど、どの工程においても熟練し技術が要求される。また、それぞれの作業を行う人が、すべて異なるのも特徴とされる。
 森藤さんは、こうした特徴を踏まえ、なぜ繊細な紋様を持ち、精巧な技術を要する麻織物が宮古という小さな島で開花したのか、との疑問を出発点として論考。平良市の大浦多志城跡(うぷらたすじょうせき)に居城した「大浦たつ豊見親」がイスラム商人で、織物技術を宮古に伝えたとの推論を展開している。
   ◇    ◇
 概略を追うと、中世の宮古島での外国とのかかわりを指摘。民俗学者・柳田国男の、タカラガイに関して大陸から人が宮古島に漂着したとの予測や、城辺町砂川の上比屋城(ういぴゃーぐしく)跡、平良市大浦の大浦多志城跡などを引き出す。
 中世の大陸では、イスラム商人のネットワークが広範囲に行き渡っていた。宋・元の時代、泉州や長安、広州、福州などは国際都市で、イスラム商人との交流があった。これらの土地には「番坊」と呼ばれる外国人居住区があり、イスラム商人が多かった。宋朝の時代、1314年に宮古島の商人がシンガポール付近まで通行している。琉球とイスラム商人との通商は鎌倉末期から始まっていたとみられ、琉球の中でも宮古島という名前で登場している。商人が運んだものは貿易品だけでなく、地域の文化、風習、芸術、技術など多岐にわたる。宮古島の大浦多志城跡に残る「唐人渡来のあやぐ」では、福州の人「大浦たつ豊見親」は、元王朝から明王朝への移り変わりの戦乱の多い時代に宮古に渡来した。「大浦たつ豊見親」も外国人居住区の「番坊」に居た外国人で、イスラム商人だったと考えられる。「多志」という語は、「番坊」で回教徒を呼ぶときに使った「大食」から来たものではないか。「うっぷらたす」の「ぷ」の音は回教徒の一大勢力であった蒲(プー)一族を想像させると指摘。船に積んできたものは、布巻き、糸巻きなど、織物、布に関する物が多い。その布を織る技術もまた伝えたと考えてよいのではないか。「大浦たつ豊見親」は織物の技術保持者であったのではないだろうか、と推論展開している。
   ◇    ◇
 森藤さんは一昨年、久米島や宮古、石垣などでの現地実習の際に、初めて宮古上布を知り、卒論の題材に選んだ。同大の上間篤教授らの助言で、海外とのつながりで沖縄の歴史を見る研究に踏み入った。今回の卒論を機に、「布の模様にも海外とのつながりのヒントを見つけたかった。宮古で本土出身の織り子たちがいたので、その人たちの動きも知りたい。宮古方言の発音など言語についても詳しく調べてみたいと思った」と、興味を広げていた。
  (編集局・川満幸弘)

 写真説明・大学の卒論で新しい視点から宮古上布の起源を考察した森藤さん=名護市の名桜大学

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泡盛 品質表示に自主規制/県酒造組合連合会・

「古酒」の年数など、より厳しく

 【那覇支局】県酒造組合連合会(石川信夫会長)は6月より、泡盛の品質表示に従来より厳しい自主基準を設け、消費者の信頼確保に努めるとともに、さらなる出荷量の増加に取り組む。3日、那覇市内の同連合会で会見があり、石川会長らが発表した。泡盛の古酒は、従来は公正取引委員会の「泡盛の表示に関する公正競争規約」で「3年以上貯蔵した泡盛が総量の50%を超えるもの」という基準があったが、これに加え、古酒の年数表示や一般酒(貯蔵期間が3年に満たない泡盛)と古酒を混ぜた「混和酒」などの規定が厳格化された。
 従来は、たとえば「10年古酒」と表示されていても8年古酒など貯蔵期間が短い泡盛が混合されている場合もあり、基準はあいまいだった。そのため「消費者から『説明が行き届かない』『不親切だ』という指摘があった」(石川会長)。同連合会ではより明確な品質表示が必要と考え、泡盛製造業振興策推進協議会(委員長・百瀬恵夫明治大学教授)で議論を重ねていた。
 古酒(3年以上貯蔵した泡盛)に一般酒を混和しても古酒の割合が51%以上であれば「古酒」と表示できる規定は従来と変わらない。ただ、「古酒」で年数を表示する場合、全量を表示年数以上貯蔵したもの、あるいはそれ以上の年数を貯蔵した泡盛を混合したものに限られる。仮に「5年古酒」なら「5年古酒」「5年古酒100%」などとするか、5年以上貯蔵の泡盛を混合した場合は「5年古酒90%・8年古酒10%」などとなる。また、一般酒に古酒を10%以上50%以下の割合で混和した場合は「混和酒」「ブレンド酒」と表示する。
 基準を満たしているかは「品質管理監査委員会」がチェック。現在のところ罰則規定はないが、基準に違反した酒造所は速やかに公表される。
 石川会長は、特に県外向けの泡盛出荷量の大幅な伸びを示しながら、「2007年の酒税優遇措置の期限切れを前に、今の勢いを生かせば各酒造所がさらに力をつけられる」と決意を新たにした。
 百瀬委員長は、業者間で賛否両論があった議論を振り返り、「業界全体として乗り越えないといけないとき」と強調。「泡盛のおいしさを消費者に公正に伝えられる。(今回の自主基準は)最高傑作」と評した。

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きょう「さんしんの日」/宮古でも愛好者の集い

 きょう3月4日は「さんしんの日」。14世紀ごろに中国から沖縄に伝えられた三線(三味線)は、その後工夫と改良が何度も加えられ、琉球音楽の楽器の1つとして定着した。近年宮古の小・中学校では、総合学習の一環として三線が取り入れられ、沖縄の伝統文化の原点である三線の大切さを学んでいる。
 沖縄の三線文化を県内外に広めようと、1992年3月4日に琉球放送が「ゆかる日・まさる日・さんしんの日」としたのが始まりで、今年で12回目。
 県内各地では4日、流会派を超えた三線演奏会が開かれる。このうち、宮古では、宮古民謡保存協会主催の「ゆかる日・まさる日・さんしんの日大演奏会」が平良市内のJAおきなわ宮古支店の旧館ホールで開かれる。
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