200平成1 6  1 曜日

発電再開めど立たず/沖縄電力損壊風車・

原因究明後に今後の方針決定

 沖縄電力(浦添市、當眞嗣吉社長)が宮古で実施している風力発電の風車が昨年9月の台風14号の影響で設置していた6基が倒壊や一部損傷し、風力発電再開のめどが立っていない状況で、同社は7日までに風車を設置している平良市狩俣と城辺町七又に現状を説明する看板を設置した。設置された看板には「倒壊に至った原因を究明するため損壊状況を保存中」と説明され、調査終了までの理解を求めている。同社では今年の5、6月ごろまでに調査を終了し今後の方針を決定する予定となっている。
 昨年9月に宮古島を直撃した台風14号は最大瞬間風速74・1メートルを記録し、圏域全体に甚大な被害をもたらした。同社の風車も設置された6基中、倒れたのが3基、羽の損傷が2基、一部損傷が1基と、6基すべてが被害を受け機能停止状態となっている。
 はずれ落ちた風車の羽根などは、詳しい調査を本格的に実施するため同社では損壊した状況のまま保存している。これについて同社では「今回の台風は想定外の風が吹いたと思われる。現地でどのくらいの風が実際に吹いたのかなど今後の方針を決める上で重要な調査を行い、5月か6月ごろまでには今後の方針を決定したい」と説明した。
 同社によると、設置されている風車は最大瞬間風速80メートルまで耐えられる設計となっていたことから、実際に吹いた当時の風速などを詳しく調査し、再開する場合も耐久度を強化した形での設置を検討している。
 宮古風力発電システムは豊富な風力エネルギーを効率的かつ最大限に利用するため、沖縄電力が1992年から順次、平良市狩俣の西平安名崎と城辺町七又に設置してきた。

 写真説明・沖縄電力は風力発電の風車が壊れたままの状況で保存されていることを説明する看板を設置した=7日、西平安名崎

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伊良部町は今月25日/合併是非住民投票・

多良間村は来月1日、下地町は中旬か

【伊良部町】 伊良部町の合併についての是非を問う住民投票が今月25日に実施されることが7日までに決まった。告示は20日、不在者投票は21日から24日まで行われる。投票率が50%を越えない場合は開票は行われない。
 浜川健町長は「投票日までに市町村合併についての資料を住民に提供し、賛否の判断材料にしたい」と話す。
 宮古では初めての住民投票となるが、22日が旧正月に当たっているため、住民の間では「旧正月を祝うために、不在者投票率が落ちるのでは」と心配する声が上がっている。
 同町佐良浜では旧正月を含む前後の3日間を祝う習わしがあり、不在者投票の成り行きが注目されそうだ。

【多良間村】 兼濱朝徳村長が終始「民意に従う」との姿勢を示し続けている多良間村の住民投票は今月中には行われず来月1日の公算が大きくなっている。
 これは、昨年12月5日の臨時村議会で制定された住民投票条例では施行後、50日以降に実施するとあることから今月中の告示・投票が日程的に困難となり、2月1日の実施が濃厚となっている。
 同村の住民投票は合併是非を二者択一で問う。対象は20歳以上の有権者で投票日の5日前に告示し、投票時間は午前8時から午後5時まで。午後6時から即日開票されるが投票率が50%以上で成立し、それ以下では開票は行わない。
 離島の離島である多良間村は合併是非についての判断が最も難しいといわれていたが、合併問題に対する住民意識は6市町村中で最も高く、村民がどのような判断を下すか投票の結果が注目される。

【下地町】 下地町は24、25の両日に天皇皇后両陛下がご来島されることから、住民投票条例案を提案する臨時議会は両陛下がご帰島されてから招集する予定。川満省三町長は7日、本紙の取材に対し「行幸啓の準備で忙しくなる。臨時議会の招集はその後になるだろう」と話した。すでに提案する条例の素案づくりに入っており、川満町長ら三役が調整を図った後、早ければ今月27日にも臨時議会が開かれる見通し。
 住民投票については、同町議会でも実施が必要との方向性を一致させており、川満町長も昨年の同町議会12月定例会で「条例を制定し住民投票を行うよう努めていく」と前向きな姿勢を示していた。

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菊之露が初荷/東京大阪などへ2万1000リットル

 菊之露酒造(下地博代表取締役社長)の2004年初荷式が7日、同社第2工場で行われ、出席した関係者多数が同社のさらなる発展を祈願して、東京都や大阪府、沖縄本島に向けて泡盛やもろみ酢を出荷した。
 この日は泡盛の一升瓶や三合瓶など計2万1500本、2万880リットルを送り出したほか、もろみ酢2万リットルも大阪府に向けて出荷された。
 あいさつに立った下地社長は「昨年は先代の社長が亡くなるなどいろいろあったが、県外出荷は大幅に伸びた。これも社員の努力の結果だと思う。先代の思いに応えるためにもさらなる発展に向けて頑張っていこう」と述べた。
 式では関係者による鏡開きが行われたあと、トラックのコンテナに満載された泡盛を港まで運んだ。
 初出荷では、沖縄本島に各種合わせて1万8000本の1万6200リットル。東京都へは一升瓶など3500本、4680リットル、を出荷した。
 同社が昨年1年間で製造した泡盛は351万8000リットル(アルコール度数30度換算)、一昨年の337万6000リットル(同)を大きく上回った。この要因について同社では「本土での泡盛人気もあって年間の消費量が倍増したことが大きい」と説明した。

 写真説明・トラックに満載された泡盛が沖縄本島、本土に向け初出荷された=7日、菊之露酒造第2工場前

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年末年始のごみ、焼却処理追いつかず/

フル稼働も工場内に山積み

 宮古清掃施設組合平良工場では、大量に搬入された年末年始のごみの焼却処理作業に追われている。ごみの量はまだ集計されていないが通常のほぼ2倍に当たり、1日約50トンが処理できる焼却炉が追い付かない状況。工場内には、年末の大掃除で排出された粗大ごみのほか、正月や成人式の祝い事で使ったと見られるオードブル容器などのごみが山積みとなっており、同工場では「分別とごみの減量に努めてほしい」と呼び掛けている。
 年末年始の焼却処理は元日の1日間休んだだけ。2日からはごみの収集に当たる車両18台もフル稼働している。
 特に大みそかの31日は、個人搬入も含めた車両約900台が同工場に殺到。これは通常の4倍に当たるという。
 優先的に処理されるペットボトルなどの資源ごみは、ふたとラベルを取り外してこん包。新聞紙もまとめてひもでくくる作業が続けられている。
 空き缶や瓶は最後の処理となるため、工場内に山積み。燃えるごみはブルドーザーでピット内に運び込まれ、クレーンで焼却炉に入れる作業が絶え間なく行われているが、その脇からごみを収集してきた車両が順番待ちをしている状況となっている。
 同工場の職員は、「台風14号で出たごみの処理がやっと終わったばかりなのに」とややうんざりとした表情。
 「ごみの11種分別は、以前に比べて浸透しているが、まだまだ。リサイクルできるものは活用したり、家庭でごみをなるべく出さないような工夫をしてほしい」と話していた。
 年末年始に運び込まれたごみの処理にはあと10日ほどかかるという。

 写真説明・年末年始に運び込まれたごみの山=宮古清掃施設組合平良工場

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貝やイノシシが食糧/

城辺町新城 アラフ遺跡・調査団が報告書

 「新石器時代後期(2999−1900年前)に城辺町の北海岸に居住していた人々は、集石遺構を持ち、貝斧を使い貝やイノシシなどを食料に生活していた」。新城のアラフ遺跡を発掘調査している調査団(団長・江上幹幸沖縄国際大学教授)は、そういう内容の報告書を発表した。
 調査はかつて長間底や浦底、アラフなどの海岸に住んでいた人々の生活復元を目的に実施。報告書は2000年3月の予備調査から02年12月の第5次までの結果をまとめた。
 報告書によると生活痕は第U―第Zまで6つの層で確認され、シャコガイ製品15点、スイジガイ製品10点、クモガイ製品6点、貝製ビーズ3点、クロチョウガイ製品1点、サメ歯製品2点、獣歯製品1点、打製石器1点などが出土。遺構は焼石料理に使われたとされる集石遺構が18、砂地を掘り込んだ竪穴遺構が7つ見つかった。
 シャコガイ製貝斧については「形状からは突き具あるいは堀り具の用途が考えられる」と考察。打製石器に関しては材質が宮古島に産出しない砂岩であることから「他島や他地域との交流が存在したことも確かだと考えられる」と、興味深い見解を示した。
 集石遺構に関しては「焼石料理に使用された可能性は高い」としながらも、実際に石灰岩を焼いて実験した結果、ぼろぼろになったため「すべての集石遺構が焼石料理に使用されたのか、まだ疑問が残る」と、従来の説に一部疑問を投げ掛けた。
 竪穴遺構については「住居址との確証を得るには至らなかった」と述べ、今後の課題にした。
 貝はチョウセンサザエや、サラサバテイ、シャコガイなど多種類を採取。このうち、サザエが6割以上を占めた。動物遺存体は宮古に現存しないイノシシやカエル、ヘビなどの検出量が多かった。同遺存体については「宮古島における先史時代の生態系を明らかにするばかりでなく、当時の環境を復元するためにも貴重な資料」と評価した。

 写真説明・このほど発行されたアラフ遺跡発掘調査報告書

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給食に七草がゆ/城辺町・日本の文化食を学ぶ

 五節句の1つ「七草」にちなみ、城辺町内の小・中学校では7日の給食に七草がゆが出された。児童・生徒たちは1年間の無病息災を願うとともに、古くから伝わる日本の食文化を学んだ。
 同町立西城小学校(川満泰博校長)では給食前に七草がゆの由来が紹介されたあと、全員で「いただきます」と声をそろえてはおいしそうにすすった。
 初めて七草がゆを口にした与那覇晴乃さん(3年)は「七草のことは知らなかったけれど、食べてみたらおいしかった」、与那覇雅彦君(5年)は「口の中でふわーっとする感じやあっさりしているところがいい」とそれぞれ感想を話した。
 七草がゆを1月7日に食べる習慣は中国から伝わったとされており、日本では江戸時代ごろから無病息災を願うとともに正月のごちそうからお腹を休めようと食べられるようになった。春の七草は▽ナズナ▽セリ▽ホトケノザ▽ゴギョウ▽ハコベラ▽スズナ▽スズシロ―の7種類。七草がゆを食べる習慣は元々、宮古にはなかったが、復帰後、本土からの移住者が宮古でも食し、隣近所などに広まり普及した。

 写真説明・おいしそうに七草がゆを食べる児童ら=7日、城辺町立西城小学校

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