 |
 |
@石原雅太郎 顕彰碑
宮古島市の本庁舎前に北の方を向いて建てられた胸像がある。穏やかな顔で一点を見据えている。晃嗣くんは「池間のおじいに似ている」と大はしゃぎ。生前の功績を説明するとみんな「すごい人なんだー」と改めて見直していた。
1881〜1975年。平良下里に生まれる。沖縄師範学校卒。教育者、政治家。佐良浜小校長を経て政界へ進出。戦前平良町長4期、戦後平良市長2期を務める。1958(昭和aj年から三大事業(電気、水道、桟橋工事)を完成させた。平良市初の名誉市民。62年顕彰会発足、翌年6月に市役所玄関前に胸像を建立。 |
A盛島明長 顕彰碑
宮古神社の南側の道から急な階段を登りつめると、境内の左手に一際高い銅像が建つ。手前に祭りの名残か提灯がぶらさがっている。引率の先生が少しどかして記念撮影。「池間島の灯台を建てた人だ」と説明するとみんなが一斉に歓声をあげた。
1880〜1941年。下地間切洲鎌村に生まれる。沖縄師範学校卒。長崎医学専門学校入学、1908(明治41)年卒。翌年盛島医院開業。県会議員5期(副議長、議長各一期)、国会議員2期当選。その間に宮古中学校の創設、宮古高等女学校の県立移管、宮古島測候所、池間島灯台の設立など幾多の業績を残した。胸像は1965年宮古地方庁構内に建立、後に宮古神社境内に遷された。 |
 |

C真栄城徳松 顕彰碑
熱帯植物園の中央に東西に伸びるデイゴ並木。その中ごろの北側に青みがかった胸像がある。この植物園を造成した人でもある。「この人が最初に池間島に橋を架けようと言ったんだよ」と説明すると、みんは感動した様子で「ありがたい人だね」と口々に言った。
1911〜1989年。平良字西里に生まれる。平良市議会議員、琉球立法院議員を歴任。64年、第7代平良市長に就任。亜熱帯植物園の造成、総合グラウンドの建設、宮古産業技術学校(後の工業高校)の誘致、宮古島上水道組合の設立など、宮古島発展の礎を築いた。その功績を顕彰するため、銅像建立期成会が、85年8月に熱帯植物園で胸像を建立する。 |
B慶世村 恒任之碑
熱帯植物園の南側にある「かあちゃんの森」東側に黒茶けた石碑が聳えるように建つ。「宮古研究の父」とあり、その威厳を誇るような堂々とした石碑に「宮古の歴史を教えてくれたんだ、この人が」と、子どもたちは目を見張った。
1891〜1929年。現在の平良下里に生まれる。沖縄師範学校を病気で中退。兵役を契機に県外生活を体験。帰郷後は代用教員、新聞記者の傍ら、宮古研究に打ち込み、宮古史を初めて通史として体系化した「宮古史伝」等を著したこの功績を称えて1980年に顕彰する会が平良市熱帯植物園に「宮古研究の父」として記念碑を建立する。 |

D平良恒道 顕彰碑
植物園に入ると、左手の芝生の広場に二つの石碑と銅像。その右側のこの碑はデザインが斬新で人目を引く。時代的には一番古いが、命を賭けた人命救助の逸話がロータリー精神「超我の奉仕」に値するとして国際ロータリー第358が建てた。
1747(乾隆12)年、12月9日、伊良部首里大屋子平良恒道と洲鎌目差は船子趨シと貢納をすませ宮古へ帰る途中、嵐に遭い台湾に漂着。翌年1月5日沈没寸前の清国船から24名の清国人を救助した恒道らは少ない食糧を分かち合って琉球館へ着いた。
清国皇帝はこの義挙を聞き、尚敬王に書簡を送り恩を謝した。尚敬王は恒道と洲鎌目差を位階に列し、恒道は後宮古の頭に任ぜられた。顕彰碑は国際ロータリー第358が熱帯植物園に建立する。 |

E下地玄信 顕彰碑
植物園芝生広場のもう一つが左側の実物大の銅像。そばには女の子も立っている。この微笑ましい像は、この碑の主が「育英の父」と呼ばれるゆえん。子どもたちはとても感動した様子で「自分の財産をみんなのために役立てる人ってすごい」と、口々にたたえていた。
1894〜1984年。平良字東仲宗根に生まれる。県立一中から東亜同文書院を卒業、公認会計士として国内外で活躍し、資源の乏しい沖縄県の人材育成のために多くの小・中・高校生に図書や奨学金を贈り「育英の父」と呼ばれる。宮古では十指を超す小・中・高に下地玄信文庫を設け、基金三千万円で下地玄信育英会を設立し、人材育成に貢献した。顕彰期成会によって1973年平良熱帯植物園に全身像を建立する。 |

F砂川正亮 生誕之地
城辺保良線を福嶺学区に入り途中七又集落に入って行くと公民館がある。その道を隔てた真向かいに建つ。サトウキビ畑の一角で、当時は屋敷跡だったのだろうか、生誕之地となっている。地元というより赴任先の奈良県下に初めてツベリクリン反応を実施した人で、結核予防対策に尽力したとして知られる。
1888〜1967年。城辺字七又に生まれる。1913(大正2)年鹿児島県立鹿屋農学校獣医科入学、16年卒。獣医として県内各地に勤務後21年東京医学専門学校に入学、25年に卒業。奈良県衛生課技師、警察部衛生課等勤務、40年大阪帝大医学部より学位授与、宮古出身医博の第一号。奈良県立医学専門学校(現奈良医科大学)設立に尽力する。碑は七又に建てられている。 |

G高里景親 顕彰碑
城辺保良線を新城集落に入り、しばらく行くと、右手に公民館。その構内にある。子どもたちは、その碑よりも、隣に置いてあった文化財の力石に興味をもち、みんなで持ち上げようとした。こうした石は昔どこの公民館にも大小の二個が置いてあったようで、祭りの時の男たちの力比べの象徴になっていたようだ。
1887〜1961年。城辺字新城に生まれる。1912年から城辺村議会議員を7期務める。戦後は宮古郡議会議員4年。旧城辺町の行政、教育振興、人材育成、産業開発、因習啓蒙などに貢献。碑は1968年、新城部落民が「氏の偉業を顕彰し、その功徳を永遠にたたえ、恩赦感謝の象徴として」新城公民館敷地内に建立した。 |

H比嘉財定生誕 百年記念顕彰碑
城辺線を福里に入る途中で左手に折れると比嘉集落にたどり着く。祭り「二十日正月」でシーサーあらすを行う広場の向かいに比嘉地域総合施設があり、その構内に高い塀から表の道路を覗くように胸像が建つ。「宮古で初めての東大卒で民俗学者柳田國男らにも影響を与えた人だよ」と説明すると、みんなは「すごい人がいたんだね」と感心していた。
1881〜1917年。城辺比嘉村に生まれる。宮古出身初の東大卒。県立一中、熊本第五高等学校(現熊本大)を経て1910(明治43)年東京帝国大学法律学科を卒業、農商務省に入省、13(大正2)年、熊本営林署長、14年依願退職、15年米国へ留学、16年カリフォルニア州で病没。1988(昭和・)年8月生誕百年記念碑建立期成会が出身地の比嘉に胸像を建立する。 |

I国仲寛徒・頌徳碑
初代の伊良部村長ということで、伊良部支所の構内に建てられている。二十八歳で校長になったことでも知られ、その英才は際立っていた。教育畑から政界に転身しただけに教育の振興には熱心で、併せて村の発展にも尽力、五十六歳という生涯を一気に駆け抜けた。
1873〜1929年。下地間切佐和田村に生まれる。沖縄師範学校卒。伊良部小、佐良浜小校長を経て、1908(明治41)年、初代伊良部村長となり、第二代、第六代の三期にわたり村長を務め、教育の振興と伊良部村の発展の礎を築いた。碑は1934(昭和9)年、元伊良部村役場横に建立され、1997年現伊良部支所庁前に複製碑が建てられた。 |
 |
|
J西原雅一 顕彰碑
元の伊良部町営陸上競技場特定公園地区に建つ。医専を卒業して郷里で開業、僻地医療に尽くした人。その後、政界に転身し郡政や県政の発展に貢献する。立派な御影石の顕彰碑だが、宮古島市の合併により、隣の施設も閉鎖され少し淋しい風景の中にあった。
1892〜1954年。伊良部島の前里添(佐良浜)に生まれる。1916年、県立一中を経て熊本医学専門学校を卒業。下地、次いで伊良部で開業し僻地医療に尽くす。35年伊良部村長、37年県議に当選、二期務める。50年、宮古群島政府知事となる。52年、第一回立法院議員に当選するなど、郡政、県政の発展に貢献した。碑は93年前里添に建立された。 |