行雲流水

 千曲川といえば藤村の「千曲川旅情のうた」で有名だ。その千曲川が流れる長野の善光寺は天台宗の大勧進と浄土宗の大本願という二つのお寺によって運営され、もともと宗派はない。つまりあらゆる宗派を受け入れている。「寛容」の宗教文化が栄えているらしい▼貞享五(一六八八)年、四十五歳の松尾芭蕉は木曽路から信州へ入り、姨捨山の月を眺めて江戸への帰途、善光寺をお参りし、「月影や四門四宗もただ一つ」という句を残した。仏教にはいろいろの宗派宗門はあるが、こうこうと照る月の下、人間が生きる道はひとつではないかということが芭蕉の感慨だったようだ▼世界を震撼させた米国同時多発テロと、アフガニスタンへの攻撃。イスラム教とキリスト教の”文明の衝突”は、民族・国家間のさらなるせめぎ合いを招き混迷を極めている▼現在も世界では、正義を振り回す西欧キリスト教(とりわけ米国)と、聖戦(ジハード)を断行するイスラム教世界の、血で血を洗う報復劇が繰り返され、多くの無垢の民が尊い命を奪われている▼東西冷戦後、この地球上には宗教の抗争や民族の対立がいっそう激化する不安定な世界にあって、日本は文明の責任を果たせるか、と司馬遼太郎は問うた。その哲学として華厳のそれを主張した。華厳の哲学とは、セム系一神教のような絶対者がいる思想ではなく、「万物はお互いさま」という「相依相関の世界」だ。今こそ、「寛容」の宗教文化が求められている▼「人間の言葉への過信が宗教対立を生む。教理をめぐる言葉は虚しい。信仰の核は、言葉が立ち入ってはいけない神聖な空白だ」とは沖縄平和賞を受賞した医師・中村哲氏の哲理だ。芭蕉の「感慨」と符号しないだろうか。

(2007/02/02掲載)

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